経験と理解の違い

メディテーション 瞑想 Aug 15, 2023

 瞑想は心、すなわち感情や思考を扱うものであるために、とかく頭で理解するものだと思われがちですが、私たちの伝統では、瞑想とは『経験』するものだと強調されます。瞑想とは、思考・感情・知覚を自分で経験することなのです。瞑想をきちんと身につける為には、まずこの「経験」と「理解」の違いをしっかりと認識しておくことがとても大切です。

 私のPCに内蔵されている国語辞典には、『経験』とは、直接触れたり,見たり,実際にやってみたりすること。また,そのようにして得た知識や技術。」や、「〘哲〙理念・思考や想像・記憶によってではなく,感覚や知覚によって直接に与えられ体験されるものごと。」(*スーパー大辞林 PC版)と定義付けられています。瞑想とは、感覚や知覚で直接的に体験できるものであり、ある意味スポーツのようなものなのです。

 もちろん瞑想を行うには、なぜ瞑想を行うのか、そしてそれを行うための具体的な方法はどうするか、といった瞑想への見解を持つための学習と論理的理解は絶対的に必要不可欠です。しかし、理論的なことを理解しただけでは、まだ実際に心に触れた訳でも、瞑想を身につけた訳でもありません。ビデオ見たり教本を読んだり、ルールブックを読んだりしても、それは実際にそのスポーツをプレイしたことならないのと同じです。

 このブログでも幾度となく紹介していますが、私たちの伝統では、瞑想は「何かに慣れ親しむ」ということが瞑想の基本的な定義です。特に自分の思考や感情、感覚知覚になれ親しむ訓練なのです。身体的な感覚や知覚がどう作用しているのか、思考や感情といった心的システムがどう機能しているかを実際によく見て、感じて、それを直接的に「経験」することが瞑想で、ただ頭の中で理解しているだけでは不十分なのです。

 このことは、瞑想指導においても同じことが言えます。 True Nature Meditationでも瞑想指導者を育成するプログラムも長年続けていますが、指導者を目指す方達には、『瞑想教師の仕事は、瞑想を通して起こる心的・身体的変化を生徒さんに経験させること。』と伝えます。トランスミッション(伝達)と呼びますが、生徒と指導者は常に双方向的なコミュニケーションによって、経験を共有していくことがポイントなのです。瞑想指導は、指導法や瞑想技法の情報だけを伝える単なる知識の移転ではありません。例えばテニスを習う人は、テニスクラブで実際にボールを打つ経験を通してテニスを身につけるのと同じことです。通信教育でテニスを習得する人はいませんよね?

 瞑想は人生を豊で広がりあるものにするための心のチューニング作業です。マインドフルネス瞑想を通して、明晰で落ち着きのある自分の状態を「経験」し、アウェアネス瞑想で思考や感情や知覚の本質に触れる「経験」をし、トンレン瞑想やメッタ瞑想などのコンパッションの瞑想で自意識の過剰反応を「経験」し、それらを適正に扱う力を磨きます。そしてそれを日常に適用して行くのです。仕事や家庭などで心を揺さぶられたり、心を見失った時に、心の本来の有りように立ち戻れる反応を作るのが日々の瞑想練習なのです。

 古から受け継がれるスートラやシャストラなどの瞑想の哲学や理論書は、ブッタに端を発し、ナローパやティローパ、マイトリパなどインドのシッディたち、マルパ、ミラレパ、ガンポパなどチベットの多くのメディテーションマスターたちが、2600年の歴史の中でそれぞれ瞑想を行い、心を経験し、それを基に自分たちが生きた現実の世界の経験をまとめたものです。いわば瞑想を通して世界を味合うために彼らが作った心のレシピなのです。

 現代に生きる私たちは、彼らが経験をまとめたレシピを受け取り、実際に料理をして、食べてみて、自分の栄養にする必要があります。それによってはじめて瞑想が自分の血肉になるのです。レシピを読んだだけでは、お腹は満たされず、栄養にもなりません。だからこそ瞑想は実際に座って心を経験し、日常で心を経験しなければならないものなのです。人生の経験と瞑想の経験は全くイコールなのです。