3つのリアリティ

Sep 23, 2022

 瞑想ではよく、「ありのままにものを見る」という表現を使いますが、「ありのまま」とは、目の前に広がる現象や心の中の動きを知覚して、リアリティ(現実)を見ることです。リアリティを見ると言われると、「え?そんなの毎日見てるけど?」と思われるかもしれませんが、ほとんどの人が見ているリアリティは、実は100%ピュアなリアリティではありません。少しまたはたくさんフェイクが混ざっています。では本当の『リアリティ(現実)』とはなんでしょうか?

 瞑想実践の観点から言うと、リアリティのレベルは混濁したものから純粋なものまで3つあります。 

 まず、最初の段階のリアリティは、虚実色々が混ざり合っているほぼフェイクに近いリアリティです。目の前で起こっている現実に、思い込みや決めつけ、感情などを混ぜてしまっている、情報が正しく受け止められない、ある意味で混乱した状態です。これを混乱した(または誤った)相対的真実(False Relative Truth) と呼びます。とても感情的で思い込みが激しく、自分の世界に閉じこもっていたり、心理的に物事を正しく受け止められない場合、私たちは、この「混乱した相対的真実」をリアリティとして捉えます。

 こうした混乱を脱するために有効なのがマインドフルネスです。マインドフルネス瞑想の練習や日常の中での所作をマインドフルに行う落ち着きを磨き、心の明晰さを磨くことで、全てがごちゃ混ぜになった状態から脱して、ある程度、整理されたリアリティを見れるようになっていきます。

 マインドフルになることで、自分がいかに感情的であったり、「何か」を決めつけてものを見いることに気がつきだします。それによってはじめて、感情的な含みや過度な決めつけが含まれない現実が現れます。ある程度の混乱を脱して、落ち着いて整理された現実が広がりはじめます。この段階のリアリティを「本当の相対的真実」(False Relative Truth) と呼びます。

 この第二段階でのリアリティが、日頃私たちがリラックスし、落ち着いて現実を見ている状態です。あまり感情的にならず、過度な思い込みいにも囚われない、いつものリアリティと言ってもいいかもしれません。しかし、このレベルは、残念ながらものごとを「ありのまま」に捉えているとはまだ言えません。なぜなら目の前の現実を理解したり認識するために、私たちの主観や名前や概念を介しているからです。まだまだ、現実をある特定のルール(概念)を使って便宜的に捉えてしまっています。

 こうした主観や概念を混ぜてしまっているリアリティを整理するために有効なのがアウェアネス瞑想(ヴィパッサナ瞑想)です。私たちが心理的にも肉体的にも何かを知覚した際に、それがピュアな出来事なのか、それとも私たちの主観や概念が混ざったものかを明確に分ける力を培っていきます。アウェアネスもマインドフルネス同様、坐る瞑想だけではなく、普段の生活の中で常にこうしたことに意識を向ける練習を続けていきます。この練習を繰り返すことで、リアリティを歪めてしまう要因が、自分の主観や概念であること、すなわちエゴ(自我/自意識)の活動であることが、実感として捉えられるようになっていきます。

 そして、最後に現れるのが、ものごとを「ありのまま」に見るというレベル、100%ピュアなリアリティです。このピュアなリアリティとは、エゴのフィルターがかかる前の純粋な知覚で世界を見ている状態です。一切の概念や記憶、自分の主観(エゴの視点)を使わないで事象を捉えます。私たちの伝統では、この段階を「正気」(Sanity)と表現します。こうした純粋な知覚を通して知る現実を「完全な真実」(Absolute Truth)と呼びます。

 ピュアなリアリティを見るための阻害要因である、エゴの活動を減退させるためには、メッタ瞑想やトンレン瞑想といったコンパッション(思いやり)の練習が不可欠になります。こうした瞑想練習が、私たちが他者を思いやる時に、エゴの活動を減退してくれます。自分中心でものごとを捉える癖を減らすことでリアリティに「私」という混ぜ物をしない訓練をしているわけです。

 

 このようにものごとを「ありのまま」に見るためには、自分自身の知覚の正確な機能を自覚し、思考や感情などの心の反応の仕組みを理解し、さらにエゴ(自我/自意識)の作用が及ぼす事象に対しての自動編集機能を自覚し、放棄する必要があります。私たちの伝統では、そうしたことが可能になる唯一の方法が、瞑想の実践だと言われています。

 瞑想とは、リアリティをクリアに純粋に見る目を養っている訓練と言えるかもしれません。マインドフルネスやアウェアネス、そしてコンパッションなどの各種の瞑想は、正気に戻る練習なのです。過剰にリラックスして茫然自失になったり、過度な集中や強いイメージに没頭してリアリティから外れてしまっていたら、それは瞑想の練習ではありません。イライラや不安から目を背けていても瞑想と呼べません。目の前で起こる事象を全てをありのままに見て感じる力を養うことが瞑想のポイントになるのです。

「ありのまま」とは、良い&悪い、快&不快、安心&不安、楽しい&悲しいなどなど、全てを包含してみることであって、恣意的に心地のよいものだけをみることではありません。ときには心地の悪さを経験するのも瞑想なのです。