識別する心

Apr 04, 2023

 このブログを楽しんでいただいている皆様、すっかりご無沙汰をしてしまいました。そして更新がすっかり止まり申し訳ございません!

 今回はまず、言い訳から入りますが、、、

 私の先生、Davidの主催するDharma Moonがプログラムを大幅にアップデートしたことに連動して、TNMでもティーチャー・トレーニングプログラム、瞑想理論プログラム共に大幅にアップデートを行いました。年末から年明けは、これら全てのマニュアル更新やら資料作り、翻訳関連の監修などに忙殺されていました。そこへさらに追い討ちをかけるように、私の母が他界するという出来事も重なり、このブログまで手が回りませんでした。ここ最近は、公私ともに落ち着いてきたので、気持ちも新たにこのブログに取り掛かっている次第です。

 さて、久々の更新で、何から書き始めようかと逡巡しましたが、母の死に臨んで私がメディテーションの実践という側面から感じことが、みなさんの練習にも役立つと感じたので、今回はその辺をシェアしようと思います。重たい話題だと感じるかもしれませんが、私が学んでいるチベット仏教では「死」というのはとても身近でポピュラーなテーマです。もちろん、誰かの死というのはとても強烈な経験です。身近な人の死は特にそうですね。メディテーション・プラクティショナーとしては、死に向き合うことはとても大切な意味があること、と言われています。Davidは、今回の母の死についても、いつも以上に非常に大きな支えになってくれています。彼からも「私にとっても、母にとっても、とても強力で重要な移り変わりの機会として、心をよく見るように」とアドバイスされたりもしています。

 母は以前より持病があり、数年かけて徐々に症状が悪化をしていました。しかし、日常生活は問題なく暮らしていて、数日前まで一人で買い物に行けるほどでしたが、突然症状が悪化し、救急搬送されてわずか4日で他界してしまいました。まさにあっという間の出来事でした。このブログでも紹介しているロジョンで学ぶ4つのリマインダーの一節に『すべての世界とそこに住む人々は無常である。特に、生物の生命は泡のようなもの。死は前触れなく訪れ、この体は死骸となる。』というくだりがありますが、まさにその通りの出来事でした。私も家族も、心の準備を整える間もなく、半世紀に渡って共に生きてきた家族を失ってしまいました。

 母の死の直後にDavidと話した時、私が彼に最初に伝えたのは、「とてもとても悲しく、そして、とてもとても寂しい。でも苦しくないし、混乱せず落ち着いている。」ということでした。私は、とても澄んだ悲しみ、不安のない寂しさがありながらも、心が重たく混乱していない感じがしていました。さらにそうした心には、これまでの母との記憶や、私が彼女に持っていた愛情などがしっかりと感じられ、暖かく優しい気持ちさえありました。自分の感情がダイレクトに分かりながらも、そこに混乱からくる苦しさ、重たさという雑味が混じらないという感じは、まさにこれこそが私が長年メディテーションを続けてきた効果なのだなと、ちょっとした驚きと共に思いました。

 先ほど紹介したロジョンのリマインダーの続きには、死に臨む際に、『その時、ダルマが私の唯一の助けとなる。私は大きな努力でダルマを実践しなければならない。』ともあります。今まで私はこのフレーズがいまいちリアリティにかけている感じがしていましたが、今回の経験を踏まえてダルマが助けになるという意味の一旦に触れた気がします。10年前の私だったら、こうした大事に接した場合、不安と混乱から間違いなく取り乱していたと思います。

 メディテーションを学んでいくと、識別(Discernment)という言葉がよく出てきます。メディテーションを通して磨かれる洞察力によって、私たちは心の相違を見分けることができるようになります。ある心の状態には、感情だけでなく「これはこうでしょ?」といった決めつけや前提条件、過去の記憶、漠然とした不安など、様々なものが絡み合っています。たくさんの色の糸でできた毛糸の玉のようなものです。赤もあれば黄色も、青も緑も混ざっています。これが私たちが瞬間的に捉える心といえます。このたくさんの色を一つの模様として捉えるのか、それともそれぞれ一つ一つの色を識別できるのかによって、心のありようが本当にわかるのか、それともざっくりと捉えてるのか、の違いが出ます。

 今回、母が亡くなった時の私の心には、純粋な悲しみ、純粋な寂しさ、純粋な母への愛情に加えて、母がいなくなる事への漠然とした私の不安・恐怖、もっと親孝行できなかったのかという私の後悔なども混ざっていました。そして、不安や恐怖、後悔などは、単純に私の気分であり、母への純粋な気持ちではなく、悲しみや寂しさとは別物であることも同時に知ることができていました。メディテーションの実践によって、このように心の混合物を塊でなく、一つひとつの要素を細かく知ることで、混乱したり落ち着きを失ったりすることが軽減するのです。これが識別とか洞察と呼ばれるもので、よく瞑想の本のなどで書かれている「ありのままにみる」とはこうしたことを言います。

 さらに、メディテーションの実践は、感情や思考が全て一時的なもので、まるで雲のように浮かんでは消えてしまうことを理解でなく「体験」するものです。この体験がしっかりしたものになればなるほど、襲われる強い感情に右往左往しなくなります。ただ強い感情を眺めて、それらが過ぎ去るのを「待つ」ことができるのです。この「待てる心の力」があるからこそ、混乱や過剰な苦痛を感じることが減っていきます。そして、自分が感じている本当の感情は何なのか?雑味なく真っ直ぐにその感情に触れることができます。

 私が学んでいるチベット仏教カギュ派の創始者であるマルパ(Marpa)とその弟子との逸話があります。マルパの息子が殺されたとき、彼は非常に動揺していました。そうした様子を見ていた弟子の一人が、「あなたは以前、すべては幻想だと言っていました。あなたの息子の死はどうですか?それは幻想ではないのですか?」と尋ねました。するとマルパは「その通りだ、しかし息子の死は“超”幻想だ。」と答えました。

 私たちが、混乱のない本当の心の動きや感情の触れる本当の平凡さ経験するとき、それは非常に特別な平凡さであるとチョギャム・トゥルンパ・リンポチェは言っています。この平凡を超えた平凡な体験によって、毎日の生活の中で感じることがとても平凡になり、リラックスするようになっていきます。そしてもちろん、マルパの逸話の中にあるように、リラックスの中に、悲しさや怒りや、喜びや優しさなどの湧き上がる感情もあり、それらをただあたり前に、シンプルに、純粋に、そして柔らかく感じることができる毎日を過ごせる。これがメディテーションの実践によって得られる貴重で特別な成果なのです。

 現在の私は、母の死に対して、平静さを持って受け入れています。さらにこれから、時の変化と共に変わりゆく母との思い出や想いと共に生きていけるであろうというある種の安定と安心感があります。母が今まで通り身近にいる気すらしています。今回の一連の出来事は、私が長年メディテーションを続けてきて、心のしなやかさと、人生の彩りの奥深さを最も直接的に体験したことかもしれません。メディテーションを続けていて、本当によかったと心から思っています。この経験をシェアすることで、読者のみなさんがメディテーションを続ける助けになったり、始めるきっかけになれば幸いです。メディテーションで心を磨いて、物事を洞察できれば、そこに不安や恐怖が入り込む余地はなくなるのです。