落ち着いて気づく

Jun 15, 2023

 誤解を恐れず、極めてシンプルに瞑想について言えば、瞑想は単に『落ち着いて、気がつく』ための練習です。ただこれだけです。拍子抜けするくらいシンプルな話なのですが、実はこれがなかなか簡単ではありません。今回はこの「落ち着いて気がつく」について考えてみたいと思います。

 

 まず、そもそもわたし達は「気がついているのか?」という点から考えてみましょう。

 これは例えば、仕事に行くための忙しない朝と、週末にどこか知らない土地に旅行している時を比べるとよくわかります。知らない土地を旅していると、目にするもの全てが新しく色々なことに気がつきます。人々や建物、植生など、ちょっと歩いていてもたくさんの新鮮な発見があります。しかし、毎日の生活に戻って、朝バタバタと仕事に向かう時は、その日の予定や心配事で頭がいっぱいで、通り過ぎる人々や景色などは全く気になりません。自宅の庭で咲いている花すら目に入らないこともしばしばでしょう。私たちが何かを考えていたり、心配事などに気を取られている間、目の前で起こっていることがスルーされてしまうのです。残念ながら私たちの日常は、一部のことだけしか気づいていないことの方が多いのです。

 デイビッドの友人のあるアメリカの研究者のデータによれば、私たちが1日の活動の中で、自分のしていることに気がついている時間は、平均で48.6%だそうです。私たちの日常の活動の50%以上は、何か他のことに気を取られていて、自分のやっていることすら気がついていない、「うわの空」で過ごしているということです。この観点から私たちが「気づいているのか?」といえば、決してそうではなく、活動の半分は、散漫で、何かに気を取られているのです。場合によっては気を取られただけではなく、その気を取られたものに動揺して、感情的になったり、身体的に緊張したりもしてしまっています。

 瞑想では、Awake(目覚める)という表現が使わることがありますが、どこから目覚めるのかと言えば、散漫で何かに気を取られて、まるで夢を見ているような状態からです。また、このブログの中でも紹介してる、ロジョンなどのマハヤナのトレーニングでよく見聞きするボーディチッタ(Bodhichitta)も「目覚めた心」と訳されますが、これは自己中心的な、強い自意識にとらわれている状態を脱して、周囲を見渡し、自分の生きている環境全体を捉えることができた時の心の状態を表しています。すなわち強い 「私」ヴァージョンのストーリーといった夢から覚めた心を意味します。さらに言えば、ロジョンの先にあるヴァジラヤナのレベルにおいても、瞑想は単に「正気に戻る」と表現されます。正気に戻るとは、自分が作り上げた思考パターンから脱して、今この瞬間に意識が戻ることを指しているのです。

 瞑想にはさまざまなレベルがあるものの、どの段階においても、基本は散漫さから抜け出し、今自分がしていることに気がつく力を磨いているのです。この散漫さから抜け出す鍵は、自分が落ち着いてそれに気がつくかです。そしてこの「落ち着き」を得るための最初の一歩が、マインドフルネス・メディテーションなのです。

 呼吸に注意を払うことで、体と心をシンクロさせて、落ち着いて今にいる感覚を身につけます。マインドフルネスの練習で、落ち着いた今にいる感覚を研ぎ澄ませることで、それとは反対の散漫で、夢みがちな状態に気がつけるようになります。この散漫さと落ち着きのコントラスがはっきり自覚できることで、そこから脱することができるのです。自分がどこにいて、何をして、何を考えているのかが自覚できるレベルまで意識を覚醒させるのです。マインドフルネスは何か楽しいことを考えてそこに耽溺するのではく、ポジティブなことを考えて自分を心地よくするものでもありません。そうした夢見心地な状態から目覚めて、しっかりと物事に気がつく明晰さと洞察力を磨くものなのです。そして心が落ち着いついた先には、文字通り夢から覚めた時のように、豊かで鮮やかな現実世界が広がっているのです。

 私たちが感情や思考に気を取られている状態を、伝統的には「夢を見ているような」ものと表現されますが、瞑想は、空想の世界から目覚めて、本当の自分の人生に触れるための唯一のExit Gateであるのです。かつてチョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、マインドフルネスの瞑想中8割の時間はどこかに意識がさまようもので、2割戻れば良い方だと言いましたが、まさにその通りで、私たちの毎日の練習は、散漫でさまよう心と友達になることで、落ち着きと気づきが生まれてくるのです。ぜひ瞑想中は散漫な心を否定せず、追い出さず、優しく受け入れてみてください。それが落ち着きと気づきにつながっていくのです。