世界を再発見する

Aug 26, 2023

 瞑想は『世界を再発見』する道具だと言われることがあります。新しい世界に行くわけでも旅立つわけでもなく、ただ目の前の世界を再発見するのです。この考え方は、瞑想が歪んだ精神的トレーニングに陥らない為のとても大切なポイントです。

 瞑想実践の視点から言えば、日頃の私たちは、目の前に広がる世界と直接関わることがとても困難です。心の散漫さや硬直、すなわち先入観や偏見、概念といったフィルターによって、世界と素直に正しく関われないのです。瞑想またはそれに類する心的な訓練を施さない限り、私たちはフィルターの掛かった自分の思い込みの世界、「じぶんversion」の世界しか見ることができません。瞑想がなぜあるのかといえば、この邪魔なフィルターを取り除くためなのです。

 このフィルターシステムを稼働させているのが、私たちの「エゴ」と呼ばれるものです。エゴがしっかりと機能し始める幼少期から、私たちはエゴのフィルターを通して自分の世界を作り続け、そこで生き続けています。「みんなそうして生きていて、それで世界が構成さえれているなら、それで良いのでは?」「私の人生うまく回ってりるし、問題が見当たらないので、瞑想なんて必要ないわ!」思う人もいるかもしれませんが、そこには大きな罠があります。

この罠について、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは彼の著書「Midnfulness in Action」の中で下記のように書いています。

 

『一般的に、人は混乱の世界の中で生きることを楽しいと感じます。なぜなら、そのほうがずっと楽しいからです。苦しみ自体でさえもが、奇妙なことに楽しめます。したがって私たちは、それを根拠としてさらなる神経症的な安心を、何度も繰り返し作り出します。私たちは不平を言ったり苦しむかもしれませんが、自分の人生に極めて満足感を覚えているのです。』

(* Mindfulness in Action チョギャム・トゥルンパ / Shambhala publication)

 

 そして厄介なことにこの神経症的な繰り返しが自分で気づけない場合が多いのです。私たちの毎日には慢性肩こりのような、自覚のない不具合、コリ、不満足が存在し続けているのです。

 心にこうしたコリがあると、目の前に広がる世界と正しく関われません。漠然とした不安から来る落ち着きのなさ、散漫さが、そもそも自分が今直接体験していることにしっかり向き合わせることを阻害してしまうからです。例えば、何か気掛かりなことがある時に食事をすると、気が散っていて味や香りがしっかり捉えられない時などはわかりやすいかもしれません。

 また、散漫でなくても、自分のエゴが強く作用して、自分の偏見や先入観を通してしか物事を捉えられないとき、別の言い方をすれば思い込みや決めつけが強い場合も、世界と直接的に関われません。こうしたことはよく職場で起きたりします。ある程度仕事に慣れて経験を積むと、過去の経験に目の間の今起きている状況を当てはめてしまうのです。その方がエゴ(または私という自意識)としては、安心できるからです。なぜなら自分の観念を通して予測し、期待しているように世界が動いているな気がするからです。全てがエゴの予想の中にあるため、ある種の安心と安らぎ、場合によっては心地さがあるのです。

 瞑想は、こうした自分の意識が作り出す、決めつけや思い込みをカットして、物事を直接的に触れたり見たりする練習です。そして、それ自体はさほど難しくありません。マインドフルネス瞑想のように、呼吸を使って身体と意識をシンクロさせて、生じる思考や感情をただ素直に触れて、記憶や概念などを混ぜまない訓練をすれば良いだけなのです。

 こうした心と身体をシンクロさせて、今現在の自分が存在している世界にダイレクトに関われるようになれば、私たちの知覚はさらに研ぎ澄まされ、五感に奥行きと深みが出ます。五感が正常化していくと、五感を統合している心の意識も正常に作動し、思考や感情など心的な反応についても直接かつ正確に関われるようになります。この正確で精密な心的感覚によって、自分の概念や記憶など、自分が目の前の事実と異なる「決めつけ」を混ぜている状況がよく見えるようになるのです。

 瞑想でただ素直に直接に世界と関わると、今まで自分が見ていた世界がいかに自分のフィルターがかかっていたのかがはっきりしてきます。目の前に広がる世界はもっと新鮮で豊かで、シャープなのです。そしてリアルな世界と直接的にコミュニケーションしている時には、混乱や苦しみがなく、本物の充足感や安心感、開放感があることを自分で体験しはじめます。それが自覚できれば、混乱した世界に居続けることが抵抗を感じるようになり、自然に瞑想を続けていくことができるようになります。そうなるともはや瞑想がこなすべき作業ではなく、人生を生きることそのもののだと実感できるようになるのです。