ゼロネス

Feb 24, 2024

 私たちがクラスで瞑想のインストラクションをするとき、「呼吸と心を混ぜて、吐く息そのものになる」という表現をよく使います。吐く息に意識を向け、それに心(または意識)を混ぜたら、そこには呼吸があるだけで、それを意識している何かはいません。そこにはただ在る感覚と何らかの意識に囚われていないオープンな心的スペースが現れます。

 これは伝統的に「ダルマ(現象)と心を混ぜる」とも表現することがありますが、要するに今、この瞬間で起こっている現象そのもになるということです。そこには、何かを監視したり、評価・分析したりしていない、ただそれだけがあります。瞑想は、呼吸という行為(または現象)と一つになる練習と言えるのです。

 これに対して、私たちの日常を振り返ってみると、何かの行為を見張っている、または客観的に見ている状態が多くあります。これはその行為そのものになっているのではなく、ある対象と自分の意識が2つに分かれている状態です。この現象を「私」と「対象」に分けた視点で論ずることを二元論(Dualism)と呼び、それとは反対に状況と一つになることで現象を論ずること非二元論(Non-dualism)と言います。

 瞑想にも、この二元的なアプローチをするものと、非二元的なアプローチをするものがあります。例えば世界中で親しまれるヨガの瞑想を筆頭に、多くの瞑想のアプローチは二元的アプローチをします。非二元的なアプローチをするものは、ブディズム・メディテーションと言われる仏教の考え方を使っている瞑想にほぼ限定されます。禅やヴィパッサナ、チベット仏教瞑想などがその範疇に入ります。ある意味少数派と言えますし、とてもユニークな考え方と言えるでしょう。

 非二元的なブディズムの視点では、この私と対象のを区別して現象を認識するシステムをエゴ(Ego)と呼び、現象と一つになるための最大の阻害要因だと考えます。「私が何かをしている」と言う感覚があるということは、すでに何らかの「対象」と、それを認識している「私」の2つに分かれているということです。これは、「私」という意識、エゴの作業基盤の上で展開されたエゴの認知反応ということになります。

 それの何が悪いのか?と思うかもしれません。実際悪くはないのですが、問題はあります。エゴには、現象を過去の体験や、それにまつわる感情などの記憶を使って、目の前で起きている出来事を類推してしまう癖があるからです。要するにその瞬間瞬間の私たちが直に経験していることを、「自分の知っていること」に差し替えてしまうのです。現象をただ直接的に経験するためには、このエゴの認知システムは大きな問題になります。だからブディズムでは、エゴを通さずに物事を認知する方法、エゴのなさ(Egolessness)を強調するのです。

 そして不思議なことに、エゴを使わずに現象を認識するとき、私たちが本来持っている知性によってその現象はより明確になります。今起こっていることが、「何がどうなっているのか」の仕組みが一目瞭然になるのです。これらエゴを介さず現象を認識する力を智慧(Wisdom)と呼びます。瞑想は、こうした智慧を使えるようにする為に、私たちの本来持っている心的&身体的状況をチューニングする作業なのです。

 ブディズムの瞑想においては、この二元的視点の脱却、すなわち私と対象の感覚を超えるところに最大のポイントがあると言えるでしょう。ここが大切な「コツ」なのです。そして、この二元的視点を超える為の最も基本的で、大切な最初の一歩は、瞑想で呼吸と一つになることなのです。呼吸という行為と、それを観ている瞑想者(行為者)を一つにしてしまうことです。

 これは途方もないことのように思えるかもしれませんが、私たちは日常においてこうした体験を意外と頻繁にしています。例えば、自転車を乗るとき、私たちはいちいち考えずにただ自転車と一つになることができます。また、旅行先なので自然の豊さに触れる時、ただ自然と一体化しています。呼吸と一つになることも、自転車が乗れるようになるように自然な感覚として身につくものです。また、自転車に乗る時に物理法則を考えながら乗っていたは電柱にぶつかるように、瞑想中、呼吸を考えたり、哲学的思索を行うことは、一つになることの妨げになります。だから私たちは、ただただ呼吸になる練習をするのです。これが瞑想練習の最大のポイントなのです。

 よくこの「一つになる」ことを、瞑想やスピリチュアルな界隈では、「ワンネス」(oneness)という表現される場合がありますが、トゥルンパ・リンポチェは、ワンネスではなく『ゼロネス』(Zeroness)の方が適切だと説明しました。なぜなら、もし「ワンネス」を誰かが自覚したなら、それはすでにその「現象」とその「現象を知覚している人」の2つに分かれてしまっているのるからです。ワンネスを感じてる「私」があれば一つではなく二つなのです。そうではなくゼロネスとは現象そのものになることなのです。それを対象として認識しないのです。

 要するに瞑想は、私たちが自分の世界と別のものではないことを理解する練習なのです。そしてその練習によって私たちの本来備わっている智慧を活用した、自由で知性的な日常を過ごすことができるようになるのです。