普通の心

Jul 01, 2024

 私はよく、インタビューやクラスで「なぜ瞑想を毎日しているのか?」と聞かれることがあります。その場合、「心を普通の心に戻すため」と答えるようにしています。チベットの伝統ではタマル・ギ・シェパ(thamal gyi shepa)と呼ぶ、この「普通の心」は、英語ではOrdinary Mindと訳される通り、とても基本的で、普通の意識状態を指します。別の言い方では、「正気」に戻った状態とも言えますが、これは文字通り、自分自身が今どこで何をしていて、何を感じているのかを、ありのままにわかる状態を指します。

 しかし、私たちの日常の中で心をよく見てみると、心が普通の状態であることはほとんどありません。私たちは多くの物事を誤認し、その誤った情報を元に動揺したり、感情的になったりしています。普通どころか、今目の前で起きている出来事に、過去の記憶を重ねたり、「こうあるべきだ」という自身の考えを当てはめたり、または、好き嫌いという感情的な主観を混ぜたりして、さまざまな味付けをしているのです。

 仏教心理学とも呼ばれるアビダルマによれば、こうした心の加工は1/60秒レベルで行われると言われており、物事を認識したタイミングとほぼ同時に近いレベルで起こります。私たちが日常で感じる何かは、自分の偏見や先入観で味付けが終わった、ある意味「調理加工済み」の心を認識している場合がほとんどなのです。

 トゥルンパ・リンポチェは、「私たちの心はとても高度な編集機能を搭載している」と表現しましたが、まさにその通りで、私たちの認識は、その本質から少しズレていたり、いくつかの情報が消去されていたりします。それでも、ある程度日常生活を過ごすことはできます。私たちの日常は、正気であるようで、実は割と酔っ払っているようなものなのです。

 この「酔い」の厄介なところは、ほろ酔いからそれを超えて、ほぼ全く自覚症状がないヘベレケに酔っ払っている状態まで非常に幅が広い上に常態化しているため、その感覚を自覚しづらいことです。何かとても緊張していたり、何かに気を取られて上の空であれば、自分の心が普通ではないことに気が付きますが、日常の何気ない考え事なども、ほろ酔いレベルで誤認が生じているものなのです。

 瞑想の実践では、Awakening Heart(目覚めた心)という表現が使われることがありますが、これは文字通り酔いから覚めて、しっかりと目が覚めていることを指しています。朝、目覚めて窓を開け、外の空気をただ感じているように、自分が感じること、考えることを新鮮な情報として、歪めず、取り漏らさず、素直に直接的に受け入れられる心の状態を思い出させるのが、瞑想の重要な効果なのです。

 そして、囚われや誤認のない普通の心に馴染み、自分がシラフでいる感覚が常態化していけば、自分自身が酔っ払い始めた感覚に敏感になります。何か心配事や想いに没頭してしまい、周囲の環境への意識が無くなってしまうような、いわば泥酔状態になることも少なくなります。また、仮に泥酔してもすぐにその酔いが覚めるような、シラフへの復元力も強化されていきます。

 瞑想の基本である呼吸を使って、体と心をシンクロさせるだけで、この基本的で普通の心を思い出すことができます。瞑想とはとてもシンプルで明快、そして普通の行為に過ぎないのです。