プログラム一覧

リクパとマリクパ

May 05, 2025

 瞑想を学んでいると、エゴとエゴレスネス、サンサーラとニルバーナといったような、2つの状態を対比する表現が多く出てきます。今回はそのうちの一つ、「リクパ」と「マリクパ」の2つを紹介しようと思います。リクパは「覚知」という意味のチベット語で、トゥルンパ・リンポチェは「裸のアウェアネス」と呼んだ、純粋な気づきのことをいいます。一方マリクパは「無明」とも言われ、頭の中であれこれ評価したり、自他を分けてしまう二元的な捉え方を指します。

五感を通じて「世界そのもの」にチューニングする

 瞑想の一つの考え方として、「この世界は、すでにそれ自体の知性をもっている」と捉えます。たとえば、私たちには五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が備わっており、それを介して色や形、匂い、音、味わい……あらゆる経験に触れることができます。これらは頭で考え込まなくても、もともと自然に起こっている現象です。

 ところがマリクパ(無明)の状態だと、「これは私が見ている」「私が聞いている」「私はこんなふうに感じている」と、常に主体と客体を分けてしまいがちです。すると世界のもつ豊かな知性や調和を受け取るよりも、「自分」中心の狭い見方に陥ってしまうのです。

 逆にリクパ(覚知)の感覚に立ち返るとき、私たちは「自分」と「世界」を分けずに、目の前で起こっている生の経験にただ寄り添うことができます。だからこそ、あらたに概念や余計な解釈を付け足さなくても、世界そのもののリアリティをダイレクトに感じられるのです。

 

現象界を“燃やして”いく瞑想体験

 チベットの伝統では、現象界にあふれる形や色、概念のことを「薪」にたとえられることがあります。私たちの心がそれらを固定化して「これが正解だ」「あれは苦手だ」と頑なに握りしめると、頭の中は混乱でいっぱいになってしまいます。

 しかし、瞑想の中で「ただ呼吸になる」「五感をシンプルに感じ取る」時間を重ねることで、余計な概念の薪が少しずつ「燃えて」いきます。そしてしがみついていた固定観念が手放されると、穏やかで開かれた空間が残ります。そこに立ち現れるのがリクパ――純粋でありながら微細な識別をもった「気づき」(Awareness)です。

 たとえば、美しい花と犬の糞という極端に違う対象があっても、匂いや見た目の違いは五感で識別します。一方で、どちらも等しく「同じ空間に存在している」という事実を、余計な評価や嫌悪なしに見つめることができるのです。


リクパを日常に役立てる
 
 マリクパの状態が強いとき、私たちはしばしば自分の人生を必要以上に深刻にとらえ、緊張や苦しみを増幅させてしまいます。一方、リクパの視点から世界と関わると、ほんの些細なことにも喜びや清々しさを感じやすくなります。

 リクパは、何も特別な超能力を身につけることではありません。むしろ、「いま・ここにある世界」を、五感を通して豊かに味わい、個人的な先入観や固定観念をできる限り手放していくプロセスと言えます。その純粋な気づきに根差したとき、私たちは日常のあらゆる瞬間を、よりオープンな気持ちで迎え入れられるのです。これこそが瞑想を通して磨きたい、明晰な心なのです。

日常の中で「一つになる」練習

 リクパに慣れ親しむために、たとえば、瞑想中に呼吸に対して「私が呼吸している」という分割をなくし、呼吸のプロセスに溶け込み、「ただ呼吸」するという練習はとても効果的です。これはマハムードラの伝統表現では「呼吸と心を混ぜる」と表現するテクニックです。呼吸を主体と客体に分けるのではなく、呼吸そのものになることを目指します。

 また、ウォークングメディテーション(歩く瞑想)では、「足を運ぶ自分」と客観視するよりも、歩行動作そのものになって、ただ歩く訓練をしていきます。

 瞑想実践はこの主客の分割癖を徐々に減らす練習とも言えるのです。瞑想でこのリクパの感覚がわかり始めたら、次に重要な訓練は、日常の中でこの主客の分割を減らしていきます。

 例えば、お皿洗いなら「ただ洗う」という動作そのものになことで、洗っている自分との分離を意識しないようします。食事の時は「味を感じている私」と分けて考えず、一口一口の食感や香り、味わいと「一つ」になってみる。仕事や家事のときは一つひとつの所作や道具の手触りに丁寧に向き合い、評価や思考を手放してみるなどです。

 こうした瞬間瞬間を重ねていくことで、自分と対象を分けずに、空間全体を捉える感覚が身がれていきます。だからこそトゥルンパ・リンポチェは、アウェアネス(気づき)の訓練を座る瞑想以上に日常生活の細部に心を向けることを強調したのです。

 このように瞑想の訓練は、座るだけで完結するものではなく、日常へと拡張するからこそ、私たちの本来持つ明晰さや知性を顕にすることができるのです。

 瞑想訓練が1日24時間となってはじめて一人前の「メディテーター」と呼ばれる所以は、こうした理由なのです。瞑想に慣れた方は、ぜひこの日常での訓練を少しずつ広げてみてくさい。みなさんの瞑想実践力が飛躍的に成長していきますよ。

瞑想を学び始める

Vintage Dharma Beginner 

瞑想理論入門 詳細