聞く力
Nov 25, 2025
私たちは日々、多くの言葉に触れています。誰かの声、文章、会話。そのどれもが自然に耳へ入ってきますが、その「聞く」という行為には、思っている以上に奥行きがあります。聞いているつもりでも、実際にはその言葉に私たち自身の理解や期待が乗り、相手の言葉を歪めていることが少なくありません。
聞く力は、Hearing (聞く)、Contemplating (考える)、Meditating(瞑想する・馴染ませる)という、私たちが瞑想を学ぶ際に最初に手に入れるべき3つの知識(プラジュナ)の最初の一つであり、瞑想と同じように、ゆっくり育てていくものです。今回は、この聞くプラジュナについて、言葉に正しく触れるとはどういうことなのか、そしてそのために必要な心の姿勢について書いてみようと思います。
期待と解釈が言葉を曇らせる
誰かの話を聞くとき、私たちは自然と期待を抱きます。「役に立つことが聞きたい」「理解したい」「良い学びがほしい」。その気持ちは悪いものではありませんが、期待が強いほど、相手の言葉を自分の “わかりたい形” に変えてしまうことがあります。
本来そこにあるはずの言葉に、自分の経験や不安や評価を重ねてしまうと、純粋な意味が見えにくくなります。聞いているようで、実は自分の内側だけで行われる「自己会話」になっていることがあるのです。
見張り役と「評価の膜」
また、聞こうとする時には、自分自身を監視する「見張り役」の意識が働くことがあります。
理解できているだろうか?
失礼な受け取り方をしていないだろうか?
どう返すべきだろうか?
こうした自己監視が強くなると、相手の声よりも「自分がどう見えるか」に注意が向いてしまいます。見張り役が前に出ると、言葉と自分のあいだに “評価の膜” ができてしまい、聞くための開かれた空間が閉ざされてしまいます。本当に相手の言葉に触れたいとき、この膜を破る必要があるのです。
瞑想の実践:聞く姿勢を育てる訓練
聞く力を育て、会話中に出来上がる評価の膜を破るためには、瞑想で行っていることと同じ心の使い方が大切になります。
瞑想では「ただ~する」ことを繰り返します。ただ座る、ただ吐く。息を吐き切ったら、ただそこにいる。余計な物語や分析をせず、身体の動きと心の動きを直接、感じる時間です。この姿勢は、言葉を聞くときにも同じように働きます。理解しようと前のめりになるのではなく、まずは言葉に直接触れる。その時、聞くための開かれた空間が自然に開きます。
また、瞑想では、思考や感情が現れたらただ「思考」とラベル貼って、それをただ経験するだけです。それ以上ストーリーを追いかけない。この訓練は、聞く行為の土台になります。聞いている最中に評価や解釈が起動しても、「あ、今評価しているな」と気がついたら、また相手の言葉に戻る。これが聞く姿勢そのものです。
ポストメディテーション:日常での「ただ聞く」
瞑想の後、日常で心に気を配る時間がポストメディテーションです。ここが、聞く練習の本番でもあります。歩けば歩くことそのものに触れ、食べれば食べる行為に触れる。日常の中で「ただ~する」練習を続けていくと、心の散漫さが静まり、余計な評価のクセが薄れていきます。
誰かの声に触れる前に評価や判断が起動してしまうのは、私たちが今まで培ってきた心の“クセ” にすぎません。そのクセに気づくためには、日常そのものが最も適した練習の場になります。深く息を吐くだけで、聞く空間が戻ることがあります。言葉が届く前に、まず呼吸に触れてみると、聞く姿勢が自然に整っていきます。
言葉を「透明」に戻す
聞く力が育つと、話すときの言葉にも変化が生まれます。誰でも、自分の経験、不安、願望といった “フレーバー” を言葉に混ぜがちですが、聞く姿勢が整うと、そのフレーバーに気づきます。できるだけ混ぜ物のない「透明な言葉」を言葉で話すこと。これは瞑想と同じく、日々の練習の中で少しずつ育っていくものです。透明な言葉は、相手にまっすぐ届きます。聞くことと話すことは、実は同じ土台の上にあるのです。
聞くことは、いまこの瞬間に触れること
結局のところ、聞くという行為は、特殊な技法ではありません。私たちが瞑想で繰り返していることと同じ反応が、そのまま聞く力の本質になります。理解を急がず、評価を挟まず、まずは言葉に触れ、体験する。瞑想で培うこのマインドフルな姿勢が日常に広がっていくと、会話の質も、人との関わり方も本質に近づいて行くのです。
この文章を読み終えたあと、誰かの声や音にふれた時に、すこしだけ “ただ聞いてみる” という選択肢を思い出してみてください。聞くための空間が開くとき、世界との距離がすこし変わって感じられるはずです。