片足立ちの瞑想
Nov 09, 2026
先日、生徒さんの一人から、こんなことを聞かれました。「どうしたら、デービッドのように柔らかくなれるんでしょうか?」。私の先生であるデービッド・ニックターン(David Nichtern)に、初めて直接会った人です。普段はオンラインで一緒に座っているのですが、画面越しでは分からなかった柔らかさを、同じ部屋で座ってみて、はっきり感じたと言うのです。
実は、この感想は珍しいものではありません。瞑想を半世紀以上続けている私の先生方は、皆、マシュマロのように柔らかい人です。そして、その柔らかさは、同じ空間にいると、こちらの肩の力まで抜けていくような形で伝わってきます。オンラインの便利さは手放せませんが、瞑想には、どうしても同じ部屋で座らないと伝わらないものがあるのです。
一方で、私が体験説明会や入門のクラスで出会う、瞑想の経験がある方々は、だいたい二つのタイプに分かれます。一つは、集中力や分析力をしっかり鍛えていて、洞察も鋭そうに見えるのに、柔和さや優しさが感じられない人。話していると、どこかぴんと張りつめています。もう一つは、思いやりや優しさに溢れているように見えるのに、明晰さや洞察がなく、周りで何が起きているのかにあまり関心がない人。どちらも熱心に座ってきた人たちです。しかし、どちらも瞑想としては、何かが足りないのです。
今回は、特にこの「柔らかさ」について書いてみようと思います。
コンパッションの態度
チョギャム・トゥルンパ・リンポチェの『Ocean of Dharma』に、「物質主義のないスピリチュアリティ(Spirituality without Materialism)」と題した一節があります。スピリチュアル・マテリアリズム(精神の物質主義)、つまり瞑想を自分を心地よくしてくれる道具にしてしまうこと。それに陥っていないスピリチュアリティとは何なのか? トゥルンパ・リンポチェは、一文で言い切っています。
『スピリチュアル・マテリアリズムのないスピリチュアリティとは、コンパッションの態度です。』
― Chögyam Trungpa, Ocean of Dharma
自分の瞑想がもっと良くなれば、きっと何かが良くなる。私たちは、ついそう考えてしまいます。もっと静かな場所で、誰にも邪魔されずに座れたら。もっと集中できたら。もっと深く洞察できたら。自分がちゃんとできているかどうかばかりを気にして、世界にはまるで触れていない。スピーディーで攻撃的な社会に疲れて瞑想を始めたはずなのに、気がつけば、今度は瞑想で競争をしている。何かのゴールに向かって、まっしぐらに進んでいる。残念ながら、それこそがスピリチュアル・マテリアリズムなのです。
私たちの伝統では、瞑想は世界から背を向けるためのものではありません。むしろ、世界に戻って、ちゃんと関わるためのものです。瞑想競争には、この「戻る」が抜けています。ですから、どれほど座れても、そこにコンパッションがなければ、道を外れているのです。
コインの裏表
では、コンパッションだけを育てればいいのかというと、そうではありません。同じ一節で、トゥルンパ・リンポチェはこうも言っています。
『悟った心は、知恵とコンパッションの両方を同時に含んでいるのです。』
― Chögyam Trungpa, Ocean of Dharma
コンパッションのない知恵はありませんし、知恵のないコンパッションもありません。この二つは、コインの裏表なのです。
ですから、瞑想が育っているかどうかは、どちらからでも見ることができます。柔らかさや優しさという視点で見てもいいし、明晰さや洞察という知恵のシャープさで見てもいい。ちゃんと座っていれば、両方が同時に育ちます。デービッドも、マシュマロのように柔らかいからといって、決してぼんやりしたおじいさんになっているわけではありません。むしろ、非常にシャープです。どちらか一方ではなく、どちらも機能している。これが、育っているということなのです。
みなさんがよく苦戦するアウェアネス(気づき)で言えば、こういうことになります。もしその気づきに穏やかさや柔らかさがなければ、それは本当のアウェアネスではありません。攻撃的に気づいている。非常にクリアに何かが分かっているようで、まったく柔らかくない。そこにはコンパッションがないのです。逆に、優しさばかりで周りが見えておらず、洞察がない。これもまた、本当のコンパッションではありません。
先ほどの二つのタイプは、要するにこのどちらかに傾いているということです。私たちは、やじろべえのようなものです。誰しも、どちらかに傾きがちです。どちらに傾くかは性格によりますが、どちらに傾いていても、きちんとバランスが取れていません。瞑想は、優しさと知恵という二本の足で立つものです。片足立ちでは、ぐらついてしまうのです。
握るのか、持つのか
では、コンパッションとは何でしょうか? みんなに愛をふりまくことでしょうか? 太陽のように周りを照らすことでしょうか? それもあるかもしれません。しかし、私たちの瞑想の中で育てているコンパッションは、もっと小さくて、具体的なものです。
ちょっとここで、手元にあるものを何でもいいので持ってみてください。ペンでも、スマートフォンでも、コップでも構いません。まずぎゅっと握ってみる。次に、花を一輪持つように、そっと持ってみる。同じものを持っているのに、何かが違いませんか? この違いが、コンパッションなのです。コンパッションとは、要するに「触れ方」のことです。
瞑想で座っているとき、出てきた思考に対して私たちがやっていることは、たいてい三つのうちのどれかです。弾く。無視する。つかむ。どれでもない第四の選択肢が、「いらっしゃい」と迎え入れて、呼吸へ戻ることです。私たちの伝統で「タッチ&ゴー」と呼ぶ、この触れて離す動きこそが、コンパッションの訓練そのものなのです。柔らかく触れるから、コンパッションが育ちます。そして触れているから、それが何であるかが分かる。だから知恵も育ちます。一つの動きで、両方を同時にやっているわけです。デービッドがよく「思いやりは鍛えるものだ」と言うのは、このことです。持って生まれた性格は、関係ありません。
座るときは
実際に座るときは、「柔らかさ」を気にしてみてください。
私たちの練習の基本は、思考に「思考」とラベルを貼ることです。しかし、ただ貼ればいいのではありません。柔らかく貼れているかどうかです。ペマ・チョドロンは、「シャボン玉に鳥の羽で触れるように」と表現しています。嫌な思考でも、いい思考でも、楽しいことでも、痛いことでも、出てきたものに柔らかくタッチできているか。そして、柔らかく呼吸に戻しているか。
呼吸に対しても、柔らかくです。トゥルンパ・リンポチェは、「呼吸を聞いてみなさい」と言いました。呼吸をちゃんとしようとするのではなく、ただそこに流れている呼吸に、耳を傾けるくらいでいいのです。姿勢も同じです。顎を軽く引いて、奥歯を緩める。背中は強く、胸は柔らかく。目の奥の筋肉を緩める。ほっぺたも柔らかく。吐く息に乗って、吐ききって、ギャップ。姿勢に戻ったら、その姿勢も柔らかく。途中でぎゅっと力が入っていることに気づいたら、吐く息で緩めて、座り直せばいいのです。
柔らかさが瞑想のカギ
自分の練習がスピリチュアル・マテリアリズムに向かっていないか分からなくなったら、物差しは一つです。自分の練習に、柔らかさ、穏やかさ、丁寧さが含まれているかどうか。含まれていなければ、残念ながらマテリアリズムにまっしぐらです。しかし、だからといって反省はしなくていいのです。その反省がまた、マテリアリズムになったりしますから。今の自分の状況を、柔らかく受け止める。大概は、大丈夫です。
優しさと知恵の両足で立っていれば、瞑想は自然に柔らかくなるのです。