スピリチュアルとは現実をみること

スピリチュアリティ スピリチュアル スピリチュアル・マテリアリズム Aug 27, 2022

  「瞑想は、スピリチュアル・プラクティスの一つです。」こう聞くと、瞑想はやはり怪しいものではないかと想像される方もいるかもしれません。今回はそうした心配や誤解を取り除くために、「スピリチュアル」や「スピリチュアリティー」という言葉の意味について紹介しようと思います。

 スピリチュアルという言葉は、2つの大きく異なる見解があります。まず、よく言われる「スピリチュアル」とか「スピリチュアリティ」とは、『幸福感や安心感を求める何かの行為や考え方』であるという見解です。こうした意味でのスピリチュアリティは、不幸や苦痛から私たちを助け出してくれる永遠の幸福に「何か」が私たちを掬い上げてくれると信じて、悟りの心や神や何か超越した力との一体感を得るために瞑想や修行をするこです。それによって、何か心地の良い、永遠の巣を見つけて、そこに安住したいと信じることです。

 こうした考え方に基づくスピリチュアルな実践の多くは、自分の現状の世界を放棄することが、スピリチュアルな実践の最初の一歩で、とても重要なポイントと考えます。日常の生活、現在の人生の状況は、恒久的で安全な人生の居場所ではないので、日常よりも、より安全で、よりレベルの高い何かを探さなければならないと考えます。つまり、スピリチュアルな実践とは、永遠の幸福や永遠の若さ、永遠の安らぎといった、何らかの形の永遠へと私たちを導いてくれるものだ、という考え方です。

 一方、こうした考え方ではないスピリチュアルに対する考え方もあります。それはスピリチュアリティとは、『日常生活の状況にどう対処するかということだ』という見解です。私たちの日常がなぜ居心地が悪いのか、不幸や苦痛に満ちているのかというと、日常生活の状況との関わり方が不明確、不明瞭であるからであると考えるアプローチです。毎日の生活での不安や不幸、居心地の悪さがなぜ起こるのかということに対して、しっかり目を向けて対処することこそがスピリチュアルな実践であるという考え方です。

 この考え方に基づけば、スピリチュアルな実践、すなわち瞑想や日常の心の修練は、明晰な洞察力を持って日常を見つめるための手段となります。どこか永遠の場所を探すのでもなく、誰かに掬い上げてもらって、日常を放棄するのではなく、日常そのものを自分で綺麗に掃除することで、人生をより軽やかで明るいものにしていくアプローチです。

 アメリカにチベットの瞑想を最初に伝えた、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、一般的に認識されるようなスピリチュアリティ、すなわち永遠の幸福の中で自分を維持しようとする態度は、実はエゴ、または混乱した神経症的な心の表現に過ぎないと説明しました。日常以外のどこかに安住の地を求める行為は、「自分」、「私」、「私の全存在」を、エゴという固い存在として維持しようとする神経症的な欲求に過ぎず、本当の意味でのスピリチュアリティではないと強調したのです。

 私は瞑想を始める初日から、私の瞑想の先生であるデイビッド ニックターンより、この考え方を教えられ、以来こうした観点で瞑想の実践を進めています。(ちなみにデイビッドは、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェがアメリカに渡った時の最初の弟子の一人としても有名です)True Nature Meditationで伝えている瞑想が、日常での心の実践を強調するのはここうした理由と考え方に基づいています。

 スピリチュアル(精神的)なトレーニングとは、目の前のリアリティ(現実)とバイアスなく素直に直接的にコミュニケーションするための心や知覚を養うものです。現実から目を背けて、心地の良い世界を探したり、ただ何も感じず、目を瞑ってジーとしていてもなにも始まりません。それは単に心を鈍くして、自分のリアルな人生から距離をとってしまうだけです。それは本当のスピリチュアリティとは言い難く、むしろ単なる逃避にすぎないのです。スピリチュアリティとは、きれいなお花畑へ逃避を図るのではく、不安や恐れを超えて現実に向かっていくこと、ただシンプルにそれだけなのです。

 スピリチュアリティとは純粋で超越的なものだと考えているのでしょうか?そうであれば、それは疑問です。本当のスピリチュアリティは、普通の生活と関係があるのかもしれません。