今(Nowness)と現在(Present)

ego nowness 現在 Apr 26, 2023

 メディテーション(瞑想)、特にマインドフルネスを学び始めると、よく「今ここ」という言葉を見聞きすると思います。「今を感じる」とか「今にいる」とか言いますね。メディテーションでは、この「今」を捉えることが実践の要と言ってもいいのですが、「今」はとても誤解されやすいものでもあります。瞑想的な視点で「今」とは、「今」(Nowness)と「現在」(Present)の2つに分けられるもので、この2つの区別をしっかりすることがとても大切です。

 マインドフルネス・メディテーションの練習を続けて、思考や感情、知覚と、取り組み始め、心の明晰さが磨かれてくると、過去・現在・未来という時間がはっきりと識別できるようになります。思考にラベルを貼る練習によって、自分が考える、または思う何かは全て過去か未来であることがきちんと理解できるようになります。また、呼吸に意識を戻す練習によって、過去でも未来でもない、現在という場所もしっかりわかります。マインドフルネスの練習は、この現在と過去&未来の対比を明確にするという意味を成しています。

 過去・現在・未来を識別することも、メディテーションの実践において重要なポイントのため、この「現在」を捉えることが「今」を捉えることだと誤解されがちです。しかし、この現在を捉えた先に、もう一つ進んだ本当の意味での「今」という領域があります。私たちの伝統では、この領域を第四の瞬間(Forth Moment)と呼んだり、ナウネス(Nowness)と呼んだりします。メディテーションで言われる「今」とはこのナウネス(Nowness)のことを指し、現在(Present)ではありません。

 この現在(Present)と今(Nowness)の決定的な違いは、それを捉えてる私という意識、つまり自意識(またの名をエゴ)が介在するか否かです。「現在」は、私という自意識が、時間という概念を使って状況を認識しているのに対して、「今」は自意識の働かない、または概念的な理解をせずに、その瞬間を『経験』している瞬間です。この今(Nowness)を経験できて初めて、私たちは、エゴのバイアスを超えた「ありのまま」の心をみる基盤ができます。

 また、この今(Nowness)を経験しているときの私たちの心をリクパ(Rikpa)と呼びます。チベットの伝統では、その機能面や状態によって、心をロ(Lo)、セム(Sem)、イエシェ(Yeshe)などと使い分けますが、リクパはその中でもとても明晰で正確に事象を捉える心を指します。これとは反対に、一般的な心はセム(Sem)と呼ばれます。このセム(Sem)は感情や記憶など自意識が強く働いた上での物事を認識している心の有り様を指します。

 心の反応の順序としては、まず何らかの事象が発生すると、まずこのリクパ(Rikpa)によって最初に現実を垣間見ますが、その後、瞬時(ほぼ同時に)セム(Sem)へと変化します。リクパ(Rikpa)は「私」が何かを捉えて認識しているというより、その目の前のリアリティそのものを直接的に経験しているのです。そのため、リクパ(Rikpa)は「超越的なセム」と呼ばれることもあります。

 このリクパ(Rikpa)によって、私たちは日頃の思考のパターン、心の癖から抜け出し、それ自体を垣間見ることができるようになります。心が物事をありのままにみることが可能になるのです。しかしながら、リクパ(Rikpa)を完全に手に入れるのは極めて難しく、私たちの伝統、特にヴァジラヤナの伝統では、これを完全に収めた人を「知識の保持者」という意味のヴィディヤダラ(Vidyadhara)と呼びます。ヴィディヤダラは、一般的に知られるヴァジラ・マスターやヴァジラ・アチャリアよりも上に位置付けされます。何の混じりもないクリアでピュアな現実の世界を見れる人です。遥か彼方ですね…。

 しかしここで挫ける必要はありません。私たちはここまでの領域に到達できないとしても、日々のメディテーションの積み重ねによって、このリクパ(Rikpa)の片鱗を感じることができるようになります。よくトゥルンパ・リンポチェの本のタイトルやチャプターには、Glimpses (垣間見る)という表現が使われますが、まさに垣間見ることができるだけでも、私たちの論理的思考や、終わらないゴシップなどの散漫さを断ち切ってくれます。その一瞬には「今」、すなわち何の水増しも変更もされていない純粋なリアリティがあり、それを経験できる可能性に気づくことができるのです。それこそが、メディテーション練習の最も重要なポイントで、メディテーションはどこまでいってもリアリティの追求に他ならないのです。そのための大事な鍵が、今(Nowness)なのです。