ポストメディテーション

Aug 31, 2023

 瞑想実践には2つの練習の柱があります。実際に座るメディテーションと、日常生活で心に向き合うポスト・メディテーションです。とかく瞑想というと、座ってじっとしているところがフォーカスされがちですが、実はポスト・メディテーションがなければ、瞑想実践そのものが歪んだり成立しなくなってしまいます。この2つがバランスよく実践されてはじめて瞑想が身につくのです。今回はこれら2つの役割関係性、そしてポスト・メディテーションの重要性について紹介していきます。

座る瞑想 : 心を扱うウォーミングアップ

瞑想は座る練習が最も基本です。これがなければ始まりません。瞑想は実際に座って、体の動きを止め、呼吸を使って自分の心と体を同じ場所に置きます。散漫な心を今していること(呼吸)に向かわせます。そして、呼吸によって同調している心と体の安定した基盤で、まず基本的な心の動きを経験する練習をします。感情や思考などの動き、感覚器官を通して知覚する一連の身体的・心理的システムを経験していくのです。座って動かないという、ある程度制限された環境の中で、自分の心の動きを捉えて、それに馴染ませていきます。伝統工芸の職人の方々が自身の道具の手入れや準備をするような、または茶道や書道、華道などを実践する方たちの準備作業と同じで、心を落ち着かせて、心を観る準備を整えるのです。こうした基本的な心の準備に最も適しているのがマインドフルネス(サンスクリット語ではシャマタ)なのです。まず心の安定と明晰さ、散漫さからの復元力を磨き、それが機能するようにするのが座る瞑想なのです。

 

ポストメディテーション  : 心を扱う主戦場

座る瞑想で、心的・身体的な反応に慣れたら、日常生活で実際に心を扱います。それがポストメディテーションです。職場のプレッシャーや家庭内の揉め事、友人との付き合いなど、心に波風が立ち、落ち着きを失うのは日常においてです。その時にこそ自身の身体的・心理的反応を洞察することが心の訓練であり、瞑想実践の本体と言っても過言ではありません。日常で起こる様々な心的な反応を洞察して、自分の固定観念や先入観などを知り、普段私たちが如何に日常の出来事にバイアスをかけ、素直に直接的に関われていないかを知っていきます。また、もしそうした自分の囚われに気がついたら、それを手放す練習も行います。自分の固執癖を取り払うのは、日常でこそ練習になるのです。この日常での心を詳しく洞察する力がアウェアネス(サンスクリット語ではヴィパッシュヤナ)で、思考や感情、知覚の本質に触れ、それらをありのままにみる力を培います。

 瞑想の実践は、この2つが両方組み合わされてはじめて機能します。座る瞑想はいわば、心を観るための心の顕微鏡を準備している訓練で、ポストメディテーションは、その顕微鏡を持ってフィールドワークに出かけるようなものです。座る瞑想の練習は、この顕微鏡の精度を高めるためのもので、座る時間=レンズの精度と倍率なのです。そしてポストメディテーションの経験は、自分の顕微鏡で、日常の多種多様な出来事を観察して、自分の心の反応パターンという標本を集めて、自分の知的システムの全容を把握し、識別力や知性を広く深くしていく作業なのです。この2つのそれぞれの機能が両方稼働して初めて心を飼いならす、または心に馴染むことができるのです。

 

この2つを機能させるためのポイント

 座る瞑想とポストメディテーションをしっかり機能させるためには、それぞれの練習の意味をしっかり理解していくことが重要です。

 まず座る瞑想では、伝えられたテクニックの精密な運用が要になります。瞑想している間は、良い姿勢で座って、呼吸に注意を払って、生じてくる思考や感情、知覚をただの「思考」として扱う練習をします。それによって心に触れて、心を理解できる基盤を作る練習だからです。もし瞑想中に、呼吸を調べたり、自分の思考や感情を分析したり、心のおしゃべりに付き合っていたりしたら、それは呼吸に戻るというテクニックからは逸脱していて、厳密には瞑想をしていないことになります。座って瞑想すると、実際色々なことに気がつくものなので、どうしてもそうしたものに誘惑されがちですが、そこに誘惑されずにシンプルに呼吸に戻るということを、ただ繰り返すとがとても重要です。こうした反復練習によって、心を必要以上に評価判断したり分析せず、ただ心の動きとその内容に触れる力が付きます。その触れる力を使ってポストメディテーションを行うのです。テクニックの厳格で厳密な運用によって、私たちは心の顕微鏡を組み立て、レンズを磨くことができるのです。座っている最中に浮かぶ思考や感情をこねくり回さず、ただ気づいて手放すことがとても大切なのです。

 また一方のポストメディテーションでは、座る瞑想で手に入れた道具をしっかり使っていく意図を持つことが必要です。せっかく毎日瞑想を練習していても、練習が終わった途端に心との向き合いを辞めてしまっては何の意味もありません。座る練習はあくまでもウォーミングアップであり、それを日常に持ち込まなければ瞑想実践とは言えません。日常の些細なことにも好奇心を持ち、心を開いて優しさを思いやりを向けることを忘れないようにする意識的な努力も必要なのです。

 前回のブログにも書きましたが、瞑想実践は『世界を再発見すること』と言われたりします。瞑想して磨かれた落ち着いて明晰な心で、自分の生きている環境にしっかり好奇心を持って目を向けてみれば、そこには非常に豊で、繊細で、奥行きのある世界が広がっていることに気が付きます。慣れ親しんだ、毎日の食事、散歩、通勤、仕事、家事の中に、そうした美しさが含まれていることを再発見することが「瞑想をする」ことなのです。瞑想は自分の人生から目を逸らして、何か特別な世界に旅立つことでは決してありません。私たちの瞑想の伝統では、悟りはキッチンのシンクで見つかるものと言われたりもするくらい、瞑想はただ自分の生きている環境に正しく関わる力を磨くだけなのです。座って特別な世界を探求していても、何も始まらないのです。座って磨いた力をいかに日常で使うのか心に向き合う鍵なのです。

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