瞑想への思い込み
Jan 23, 2024私は瞑想体験会を頻繁に開催している関係で、瞑想についてさまざまな質問を受ける機会が多いのですが、瞑想に対する疑問や質問、不安などが、瞑想は『こうあるべき』という先入観に起因していることが割とよく見受けられます。そして、こうした瞑想に対する強い想いが、時には瞑想実践を阻害してしまっている場合もあります。
いつもこのブログで書いているように、瞑想にはたくさんのアプローチがあり、こっちが正しくて、あっちが間違っているとは一概に言えません。それぞれの瞑想の基になる哲学や心理学などが全く異なるからです。スキーとサッカーを比べて、どっちが優れたスポーツだと言えないように、種類の異なる瞑想の優劣をつけることはナンセンスです。もし、スキーを習おうとした時にサッカーのテクニックをそこに導入することには無理が生じてしまうように、それぞれの瞑想の基本思想、それに基づくテクニックを尊重して練習や学び進めることが必要です。特定の瞑想技法や思想にこだわるあまり、他の瞑想を行う際にその影響を強く受けてしまうことは、心の怪我を誘発する要因があるのです。
例えば、私がTrue Nature Meditationで伝えている瞑想は、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェがアメリカに伝えて広めた、チベット仏教カギュ派の理論が背骨になっていますが、これらの瞑想は『心をありのまま見る』ことを目的として実践されます。この心を見ることを目的として瞑想を行う場合に、一般的な瞑想に対する誤解や、他の種類の瞑想の考え方に囚われると、スムースな理解と成長を阻んでしまう場合があります。
そこで、今回は私たちの瞑想に向き合う際に一旦手放した方が良い、瞑想に対するある種の固定観念をご紹介してみようと思います。瞑想への一つの視点として、皆さんのプラクティスの参考にしていただければ幸いです。
瞑想への固定観念(1) 『瞑想は「心地よく」なるもの』
瞑想で最初に気づくのものはイライラと不安です。
瞑想は心を休める効果はもちろんありますが、これは中長期的なテクニックの正確で継続的な運用があって初めて発揮される効果です。座った途端に心地よくなるのは単なる自己暗示に過ぎず、正しく心が見えていません。
瞑想への固定観念(2) 『瞑想は何も考えない練習である』
クラゲになるのが瞑想ではありません。
瞑想は思考を抑圧したり、減らしたり、止めたりする作業ではありません。思考や感情を適切に扱い、心を見る能力を磨くものです。そもそも人は生きている限り思考を止めることはできません。この観念に囚われると、思考が止まらない自分を批判して、練習が単に自己批判の時間になりがちです。
瞑想への固定観念(3) 『瞑想は自己を高めるもの』
自己が高まったり、変わったりしません。
瞑想は豊かで充足感があり、知性的で洞察力のある、私たちが元々持つ「本来の質」を再確認する練習です。決して今より良い自分にレベルアップしたり、生まれ変わったりする方法ではありません。私たちの見解からすれば、自分を高めたい気持ちこそが大問題です。それは自分には何か足らない、問題があるという自己否定から生まれているからです。自分の心と状態を適正にみて、自分のどこにも問題がないことがわかるのが瞑想です。
瞑想への固定観念(4) 『瞑想は自分の「軸」を作る』
軸とは、固定観念と攻撃的で固まった自己中心性にすぎません。
ブディズムにおいては、自分の中心を作る行為は、エゴを過剰に高める作用と考えます。そしてエゴが高まれば、自己否定感と物事への決めつけが高まります。前述の固定観念(3)で述べたように、自分軸を放棄して、自分が本来持つ柔和で許容力があり、洞察に富んだ心を「再認識」するのが瞑想です。
瞑想への固定観念(5) 『瞑想は不安や心配をなくすもの』
不安や恐怖こそ瞑想の素材です。
不安や恐怖は私たちの心の癖から生じます。そしてこの癖を見極められない限り不安は続きます。だからこそ、まず自分の不安や心配のパターンを知ることが大切です。不安や心配、恐怖に慣れ親しみ、友だちになるのが瞑想であり、それらを無視したり削除したりしません。
瞑想への固定観念(6) 『瞑想は呼吸に集中するもの』
過度な集中はあなたの意識を鈍くします。
瞑想は心を明晰に見ていく技法だからこそ、意識や感覚を鈍くしません。呼吸への過度な集中は、意識的な限定・遮断を伴い、心が鈍くなります。これでは心を観察するどころか、ぼーっとしてしまい心の動きがわからなくなります。呼吸への意識配分は意識全体の4分の1くらいが適当だと伝統的に言われるのはその為です。
瞑想への固定観念(7) 『瞑想は目をつぶるもの』
知覚の遮断はあたなの瞑想の質を落とします。
ブディズムにおいて知覚は「思考」として扱います。思考を扱う練習をするのが瞑想である以上、五感も同じ心の動きとして扱います。もし五感を遮断すれば、瞑想中の心の対応幅が狭くなり、瞑想の質が低下します。五感を閉ざすことは、心の視野を狭める行為に他なりません。
瞑想への固定観念(8)『瞑想中に身体に力を入れる』
硬く固定した身体は、心を硬くします。
瞑想中、身体は柔らかく保つのが基本です。チョギャム・トゥルンパ・リンポチェはゼリーのように座りなさいと表現したことがありますが、まさにゼリーやプリンのように座り、柔和さを感じることは、心の穏やかさや思いやり、共感力を育てるためにも必要です。身体のどこかに力を入れすぎてしまうことは、心の動きも硬直化させ、自意識が高まる要因になります。瞑想中に衝動に駆られてモゾモゾ動くことは問題ですが、体を硬直させる弊害も知っておくべきです。
瞑想への固定観念(9)『瞑想 “状態” になる』
特定の心的状況を作ることは、妄想癖が高まるだけです。
繰り返しますが、私たちの瞑想は散漫で不明瞭な心の動きを減らして、徹底して明晰に今この瞬間に、そして現実に何を見ているのかを知る練習です。『瞑想状態』なる特定の心理状態を創り込むことは、「今」から目を逸らし、リアリティから遠ざかり、自分の理想の夢の世界に入り込む力が増すだけです。瞑想は現実とのコミュニケーション能力を必要とするものなので、特定の夢の国に行く必要は全くありません。
瞑想への固定観念(10)『瞑想は気分でやるもの』
瞑想は安定剤ではありません。
瞑想は自身の不健全な心の習慣的パターンを超え、新しく適正な心の癖を磨く練習です。その為には継続的な練習が必要で、不定期な練習は効果がありません。気分の悪い時に座って気分を良くする安定剤ではないのです。それは単に大きなため息に過ぎません。
瞑想への固定観念(11)『瞑想は独りでやるもの』
独り瞑想はエゴを高めます。
瞑想の基本はひとりでもしっかり練習することが必要ですが、しかし、それが嵩じてしまうと問題が生じます。ひとりだけで瞑想を行い過ぎると、瞑想で得る感覚や理解を全て自分の都合の良いように改変して解釈しがちだからです。指導者や練習仲間と瞑想を続け、自分に不都合な真実を知ることが、自己欺瞞を解消する唯一の解毒剤だと言われるのはその為です。
瞑想への固定観念(12)『瞑想に勉強は必要ない』
心の仕組みを知らなければ、ただぼーっとしてるだけ。
瞑想は、先人達が実際に経験した心の動きを学び、それを自分で検証し、さらに使いこなせるように馴染ませていく訓練です。心の仕組みを知らないまま、ただ漫然と座っても、心の動きの意味が理解できず、時間だけが過ぎていきます。
瞑想への固定観念(13)『瞑想が私を救ってくれる』
瞑想はただ座るだけ。
瞑想は何も救いません。瞑想を通して培われたあなた自身の知性が自分を救うのです。瞑想という行為を特別なものに神格化するのはスピリチュアル・マテリアリズムの一つです。
以上が、よく私たちが学んでいる瞑想を阻害しやすい、瞑想に対しての固定した見方の例です。
瞑想は自身が実践しているものの方向性や知のフレームをしっかり理解して進める必要があり、そこに齟齬があると、せっかく練習を続けても効果が出ないばかりか、エゴを高め、自己中心的な人格を作り上げてしまう危険性すらあります。これは瞑想に取り組むときに注意しなければいけないポイントです。
そして、そうしたリスクに対して、先人たちが残してくれたアドバイスがあります。
それは、『素直さを失わないこと』です。
自分が触れること、感じることに全てリスペクトし、自分の尺度で決めつけを行わず、素直にオープンな心で、何事も好奇心を持って触れることです。そうすれば自然に練習も勉強も乾いたスポンジに水が浸透していくように、どんどん吸収され、自分のものになっていきます。これは私たちの瞑想に限らず、あらゆる精神的なトレーニングを行う際に必要なことでしょう。しっかりとクリアで先入観なく物事に向き合う姿勢こそ、瞑想のコツなのです。