スピリチュアル・マテリアリズム

スピリチュアル・マテリアリズム 精神の物質主義 Apr 09, 2023

 スピリチュアル・マテリアリズム(Spiritual Materialism)という言葉があります。日本語では「精神の物質主義」と訳されています。この言葉は、瞑想が本質的な自分自身の発見や成長ではなく、エゴを肥大化させる道具になりうるという警告をするために、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェが作った言葉です。アメリカで瞑想やヨガなどのスピリチュアル・トレーニングが急激に広まった1970年代に、多くの人の瞑想が “迷走” してしまい、心を鍛えているつもりでエゴを鍛えて、自意識過剰になってしまったといいう時代的・社会的背景の中で生まれました。

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、私の瞑想の先生であるデイビッドの先生であることから、この言葉は私がデイビッドの元で瞑想をはじめたその日から現在に至るまで、私の瞑想に対する考え方や、True Nature Meditaionの瞑想に対する基本的なスタンスとして受け継がれています。私の経験上、この言葉を知っていることは、瞑想の方向性を見失わないための大事なポイントになるので、今回はスピリチュアル・マテリアリズムについて詳しく説明したいと思います。 

 スピリチュアル・マテリアリズムは、「スピリチュアル」(精神)と「マテリアリズム」(物質主義)とが合わさった言葉です。この言葉を理解するためには、「スピリチャル」という言葉の本当の意味と、「マテリアリズム」(物質主義)について理解する必要があります。 

 まず「スピリチュアル」という言葉は「精神」とか「精神的な」と訳しますが、このスピリチャルという言葉は、ある意味でとても厄介な言葉です。多くの人がスピリチュアル・パス(精神の道)とは、どこかに何か目に見えない特別な世界や特別な精神状態があり、それを探求するものだと誤解してしまっているからです。しかし、本当の意味でのスピリチュアル・パスとは、目の前で現実に起こっている出来事に、余計な解釈を持たずに直接的に向き合うことです。スピリチュアルなトレーニングは、良いことでも悪いことでも全てのことをリアリスティックに捉える力を磨くことであって、現実から目を背け、特別な世界へ逃避することでは全くありません。(この辺については、以前のブログ「スピリチュアルの意味」に書きましたので、時間のある時に読んでみてください。)ここではまず、「スピリチャル」とは、『現実とアクセセスすること』だということを押さえておきましょう。

 次にマテリアリズム(物質主義)について。この言葉は簡単に言ってしまえば、『何か外のものが手に入れば、「私」は幸せになる』という考え方を指します。そして、この考え方はフィジカル(物理的)なもの、サイコロジカル(心理的)なもの、そしてスピリチュアル(精神的)なもの全てに当てはめることができます。

 まずフィジカル・マテリアリズムとは、文字通り何かの物理的なモノが手に入れば、それが私たちを幸せにしてくれるという考え方です。携帯、車、パソコン、洋服、ハンドバック、お金などなど物質的なものを多く手に入れることによって、自分の人生やその価値を物理的な観点から測ります。「新しい携帯が手に入ればもっと便利に快適になれる」、「新しい服を新調すれば幸福感が増す」など、常に物理的なモノによって心の安定と幸せを図ろうとする心的な傾向です。

 次に、物理的なマテリアリズムが進むと、より高度で強力な快適と幸福を求めます、ここで心理的な物質主義、サイコロジカル・マテリアリズムになります。これは心に基づくもの、特に競争と心理的な勝ち負けに基づくものです。モノではなく、人に認められたり、名声を得たりすることによって、心が満たされ幸せになれると考える傾向を言います。物理的であれ、心理的であれ、何かを得れば快適で幸福になるという視点で見れば、フィジカル・マテリアリズムもサイコロジカル・マテリアリズムも同じものとも言えます。

 そして、スピリチュアル・マテリアリズムは、物理的、心理的なマテリアリズムからさらに一方進んだ心的傾向です。自分の幸福や安全を図るため、別の言い方をすれば、自己中心性、すなわちエゴを強化するために、瞑想やヨガなどスピリチュアリティ(精神性)を誤用(または悪用)してしまうことを指します。

 このスピリチュアル・マテリアリズムは、自分への信頼の欠如、自分の存在の不確かさ、自分の心の混乱状態から生まれます。自分は常に不満足で、何かが足らず、不幸な感じがするから、瞑想などのスピリチュアル・トレーニングに向き合うことで、自分を心地よく幸せな気持にして、幸せになろう考えるのです。「瞑想をしている私は人より幸せ」、「ヨガをしている私はみんなよりちょっと上のライフスタイルで生きている」、と自分を納得させ、安心させようとする傾向です。スピリチュアルなことをしているから自分は大丈夫いうわけです。

 しかし、この幸福を探す態度は、エゴまたは混乱した神経症的な心の表現にすぎません。「自分」「わたし」「私の存在」といものを維持して、幸せを維持しようという考えは、実は単にエゴの神経症的な欲求なのです。そしてそのエゴの欲求は、現実認識から離れた混乱した空想から生まれる蜃気楼のようなものに過ぎず、決して満たされることはありません。

 ブディズムの視点で言えば、そもそも私たちは何も足らないものはありません。全て必要なものが揃っていて豊かで幸福な状態です。それにもかかわらず、不足感、不快さを感じてしまうのは、私たちの本質的な存在と、エゴという自分が作り上げた幻想の「わたし」との区別がつかないほど自分の心が忙しく、そして混乱してしまうからです。マテリアリズムに陥る理由は全てこのエゴと自分の存在との誤認によるもの、エゴの不満足感が私の全存在だ誤認するからです。

 こうしたマテリアリズムを陥らないためには、「正しく」瞑想を行うしか方法がありません。瞑想を適正に行えれば、自分の心理システムを見つめることができ、エゴと自分の本質的な存在の違いをはっきり区別がつくようになります。この違いに気づくことができれば、自分の本来の存在自体が十全で、なにも欠けていないという実感を得ることができます。そうなれば自分を幸せにしてくれる何か特別なものを探しに出かける必要がありません。おとぎの国を探しのような偽のスピリチュアリティに嵌ることがなくなるのです。瞑想の実践は、スピリチュアル・マテリアリズムに嵌まる私たちの心的傾向を予防し、エゴの肥大化を予防するための非常に効果的な訓練になり得るものです。

 しかし、もし瞑想が自分の安全保全や自意識の強化、自分の心地よさの探求など、「わたし」中心で行われると、その実践は単にエゴの強化訓練になり、スピリチュアル・マテリアリズムにどっぷりと嵌ってしまいます。瞑想やヨガをしているのに、心の不足感が拭えず、すぐに先生を変えてしまったり、あちこちにプログラムを渡り歩く、いわゆる「スピリチュアル・ショッピング」に嵌ってしまう人がいますが、これはスピリチュアル・マテリアリズに陥った人の典型的な行動パターンです。瞑想実践においてこのリスクをしっかり理解することはとても重要なポイントです。

 デイビッドはここ数年の日本での瞑想の広がりを見て、「1970年から瞑想を始めて半世紀が過ぎて、また振り出しに戻るとは思わなかった!」とよく笑って話します。マインドフルネスを契機として瞑想が流行り始めた近年の日本は、デイビッドの目から見れば、スピリチュアル・マテリアリズムが蔓延したアメリカの1970年代の瞑想草創期に見えるようです。瞑想が一般的に広がり始めた日本では、これから多くのスピリチュアル・マテリアリズムに陥った瞑想プログラムや指導者が現れる可能性が少なくありません。皆さんが瞑想を始める時には、そうした心の罠に嵌まらないように、ぜひこのスピリチュアル・マテリアリズムを覚えておいてください。この言葉は、瞑想の道を進む上での強力なガードレールになり、崖に落ちずに順調にスピリチュアル・パス(精神の道)を歩むことができると思います。

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