鏡のクオリティ

david nichtern meditation まいにちメディテーション アウェアネス デイビッド・ニックターン マインドフルネス メディテーション 瞑想 Apr 12, 2022
鏡のクオリティ

「鏡のクオリティ」

私が学んでいる瞑想の伝統では、瞑想の指導者は『鏡』であるべきとよく言われます。

 これはマインドフネスを教えるレベルの先生から、ヴァジラヤーナを教える先生まで全てに必要な質です。鏡とは文字通りの、ただただ相手をそのまま映すことです。鏡のように映すためには、指導者はあらゆる先入観や偏見で映っているものを脚色してはいけませんし、鏡が曇っていたり歪でいてもいけません。指導者のレベルの違いはこの鏡の歪みと汚れ具合の違いと言ってもいいかもしれません。「いかに生徒をそのまま映せるのかが、瞑想を指導するときの最も重要なスタンスだ。」と、私の先生であるデイビッドからもよく言われます。

 私は定期的にデイビッドとプライベートセッションを行なっています。当然、私が生徒であり、デイビッドが先生です。デイビッドと私は、仕事や プライベートの話など個人的な連絡を毎日のようにSMSかビデオ通話でしていますが、このプライベートセッションの時間はそうした話は一切出しません。私の日々のプラクティスと勉強の進捗や、その内容についてのみの話をする時間です。およそ1時間から1時間半前後のセッションですが、毎回セッション中はデイビッドは殆ど話しません。

「プラクティス(練習)はどう?」

「勉強はどう?」

「人生はどう?」

これくらいしかデイビッドは口にしません。

 あとは私が話して、デイビッドはただただ聴いてます。そして、じっとこちらを見ています。10年以上前からこうしたセッション続けていますが、最初の頃はデイビッドがじーっとこちらを見ているのでとても居心地が悪かった記憶があります。全てを見透かされているようで非常に気まずいのです。

 しかし、こうしたセッションは結局何をしているのかというと、プラクティスで感じたことや、直近の生活で起こったこと、そしてそれをどう感じていたのか、さらにはさまざまな瞑想に関するテキストに触れていく過程でどんなことを考えたのかなど、デイビッドとの対話の中で自分の心の動きをつぶさずに自分で観て、確認しているのです。そして、その確認作業の中で、あ!と気がつくことがたくさんあります。良い面でも悪い面でもです。デイビッドは、私にそうしたことができる空間と時間を創ってくれているわけです。まさに自分で鏡を見ているように。

 これは瞑想の基礎的な技術と理論的な理解を持った生徒と、その指導者とのセッションの例ではありますが、ビギナークラスであっても指導の原則は、この空間を作りと指導者が鏡でいることが最も重要です。もちろん通常の瞑想のクラスであれば、瞑想のやり方を指導してもらったり、瞑想の哲学や仏教心理学を講義もあったりします。しかし、瞑想の指導においては、生徒自身が様々な体験・経験ができる空間を作り、その生徒自身が鏡で自分をみているように自分のマインドを見ることの方がより重要です。瞑想指導が単なる「知識の移転」ではないと言われる所以です。 

 例えば、ビギナークラスでマインドフルネス瞑想をはじめて体験した生徒から出る質問にも、とても深い意味があります。どんな質問であれ生徒の発言には必ずその心理状況が含まれています。指導者はその心理状態を見通し、そして見通すだけでなく、発言者である生徒がなぜそうした発言をしているのか?を生徒自身が気がつくような空間的・時間的余裕を作るのが、実は最も重要な指導のポイントです。

 よくこのブログでも書きますが、瞑想とは何かといえば、「自分と友達になる」ことです。すなわち、自分の心の動きを観たり、日頃の行動や言動をしっかり自覚したりする力を養ったり、自分の心の癖や行動の癖に気がついて、問題があれば修正をしていくことが瞑想を実践するということです。こうしたことを行えるのは残念ながら自分自身だけです。他の誰もやってくれません。瞑想指導者が生徒の代わりに行うことも当然できません。指導者ができるのは、そうした生徒一人一人が自分の心と向き合えるような状況を創っていくことだけです。指導者はそうした空間的な間(ま)を保持出来るが大切です。これはリアルなクラスであろうとオンラインのクラスであろうと同じです。

 指導者が鏡でいることは簡単ではありません。特に経験の浅い指導者はこの鏡でいることはとても難しいです。指導者自身の心が邪魔をするからです。

 「生徒さんによく見られたい!」「うまく質問に答えたい!」「自信がない!」などなどプライドや羞恥心や不安が指導者の心に去来します。こうなるともはや落ち着いていられません。こうした心の動きを封じねばとますます自身の心に囚われます。そしてそれを払拭するために「何かを話したい!」「見せたい!」という気持ちに支配されます。そうなると、生徒を見たり聞いたり、その生徒を映し出すどころか、自分の知りうる知識を披露して、安心しようとしはじめるのです。指導の方向性が、〈指導者→生徒〉になるわけです。本来あるべき〈指導者←生徒〉とは真逆の瞑想セッションになってしまいます。

 さらに、指導者が自分持つ先入観や偏見などの心のフィルターを通して生徒と接してしまう場合もあります。この場合、生徒自身のありのままの姿ではなく、指導者の中のイメージが投影されてします。全く鏡の機能は失われて、指導者のイメージを映し出すプロジェクターになってしまいます。

 このようなある種の瞑想指導の「事故」を防ぐ為の唯一の方法は、指導者が瞑想の恒常的な実践をし続けるしかありません。心の落ち着きや、物事をバイアスなく見る力は、マインドフルネス瞑想の実践量に比例してしますし、生徒をしっかり洞察する力はアウェアネス瞑想(ヴパッサナ瞑想)の実践量に比例します。そして生徒に思いやりを優しさをむけ、生徒が安心して自身の心を観れる空間を作れるか否かはメッタ瞑想やトンレン瞑想などのコンパションの実践を行うか否かによります。単純にそれだけなのです。指導者が自身の練習を欠かせないのはその為なのです。

 どんな魔法ありません。指導のテクニックや理論を知っていても、指導者自身が坐ることをしなければ、それはすでに瞑想クラスでも瞑想指導でもありません。何か違うものです。例えるな『動物のいない動物園』のようなものです。

 よく写る鏡でいるためには、毎日毎日磨く必要があるのです。