2つの思いやり

meditation まいにちメディテーション マインドフルネス メディテーション ロジョン 瞑想 Apr 12, 2022
2つの思いやり

 メディテーション(瞑想)する目的は色々あります。落ち着きを得るため、明晰になるため、洞察する力を高めるため、etc..世界中にたくさんの種類の瞑想があるのは、それぞれの瞑想には、鍛えたい心の質があるからと言えるかもしれません。

 今回は瞑想で鍛えられる心の質の一つである『思いやり』について書いてみようと思います。

 私が実践している瞑想の伝統では、この思いやりの心をどう育むのかはとても重要なポイントでもあります。以前のブログでも書いたように、ある意味メディテーター(瞑想実践者)のレベルは思いやりのレベルと言い換えることができるくらいです。

 「思いやりの心」をサンスクリット後では、Bodhichitta(ボーディチッタ)と言います。 BodhiはAwakening(目覚める)、chittaはMind(心)という言葉を合わせたものです。ですので、BodhichittaとはAwakening Mind 、『目覚めた心』と訳されるものです。心が散漫で混乱していて、自己中心的な意識に囚われた、ある種の『夢』を見てるような状態から目が覚めた心のことを指します。自分の作り出した固定観念の夢から覚めた時、わたしたちは周りの人々や生きもの全て対して思いやりを向けることができるようになります。

 このボーディ・チッタには2つの側面または方向性があります。自分中の本質的な思いやりを感じる“Absolute Bodhicitta”(絶対的なボーディ・チッタ)と周りの人に思いやりを向ける“Relative Bodhichitta” (相対的なボーディ・チッタ)です。

 私がクラスでこのボーディ・チッタを説明するときに、しばしば電球に例えます。この電球はわたしたちの中に必ず搭載されいて、常に電源が入った状態で光を放っています。この電球がボーディ・チッタ、思いやりの心です。この『思いやり電球』は、誰もが必ず内臓されていて、電球を持っていない人はいません。思いやりの心がない人はいないのです。

 しかし、わたしたちの日常を振り返ってみると、周りの人や自分に優しさや思いやりを向けることができる場合と、全く向けることができない場合があります。時には、思いやりのかけらもなく、敵意や怒りを向けてしまっていると感じることも少なくありません。

 そのように思いやりが感じられないのは、『思いやり電球』の周りに分厚いシェードや、場合によっては鉛の被せ物のようなものが覆い被さってしまい、思いやりの光が外に全く漏れなくなってしまっている状態の時なのです。

 この被せ物の素材や原料は、私たちの「思考のパターン」や「心の癖」でできています。「先入観」や「概念化された思考」と言ったりもできます。要するに思いやりがない時は、自分の強い思い込みによって思いやりが「隠された」状態であるのです。ここで大切なことは、電球が壊れていたり、電源が切れているわけでは、決してないということです。

 この被せ物が取り払われ、電球が裸で光を放っている状態を、Absolute Bodhichitta(絶対的なボーディ・チッタ)と呼び、自分が特定の観念に囚われず、心がひろやかで、自分の中にある思いやりや優しさを感じることができます。また、その電球を懐中電灯やスポットライトに入れて、光が照らす方向を限定して、特定の対象を照らしている状態をRelative Bodhichitta(相対的なボーディ・チッタ)と言います。家族や友人、周りの人達、ペットや動物たちに思いやりを向けている状態です。
 
 思いやりを使う為には、自分の心の被せ物を取っ払う作業が重要になります。その作業に必要なものがマインドフルネスなのです。マインドフルネス・メディテーションによって、まず自分自身の散漫さや感情の乱高下、自分の思い込み、決めつけなどを取り払います。自分の中で光り続けている思いやり電球を被せ物を取り、露にしていきます。マンドフルネス瞑想は、絶対的なボーディ・チッタと言える心の状態に触れる訓練でもあるのです。

 そして、マインドフルネス・メディテーションを通して、自分の中で明るく光っている『思いやり電球』の光が露わになったら、その光を家族や友人、職場の仲間、ペットなど、周りの人たち、生き物たちに向ける練習をします。これが相対的ボーディ・チッタの訓練と呼ばれ、メッタやトンレンといったメディテーションをしていきます。

 マインドフルネスを続けるということは、単に落ち着きや明晰さ、集中力を高めるだけではなく、 瞑想実践者本人の本来持っている思いやり・優しさの質を顕にする効果もあるのです。マインドフルネスになることは、優しさ・思いやりを見つける最初の第一歩なのです。