瞑想のふり

meditation truenature まいにちメディテーション トゥルーネーチャーメディテーション マインドフルネス メディテーション 瞑想 Apr 12, 2022
瞑想のふり

 とかくメディテーション(瞑想)というと、「頭」でやる何か知的なモノというイメージを持たれる方が少なくありません。もちろん、頭に何かをビジュアライズ(視覚化)してリラックスしたり、何か特定の考えを深く思索したりするといったメディテーションも実際にあります。

 しかし、 メディテーションを行う上で、そうした「頭」のイメージよりも重要なものがあります。それは『身体の感覚』です。そして、厄介なことに、この身体感覚は、「リアルな身体感覚」と「フェイクな身体感覚」があり、そこ2つの違いをはっきりさせないと瞑想が“迷走“してしまいまう危険性があります。今回はこの2つの身体感覚について書いてみようと思います。

 私たちTrue Nature Meditationが紹介しているマインドフルネス・メディテーションにおいても姿勢の保持を強調したり、呼吸を『感じ』たり、五感を稼動させたままにしたりと、まずとにかく身体の感覚を捉えてもらうところから練習が始まります。

 なぜ身体の感覚を重要視するかというと、まず、心の在処を把握する必要があるからです。心がどこにあるのかが判らなければ、そもそも心のトレーニングであるメディテーション自体が成立しません。そして、心はどこにあるのかというと、他のどこでもなく私たち自身の身体にあります。私の心は、いつも私の隣に座っている愛犬ルンタの中にはありませんし、目の前の植木にもありませんし、ましてや仕事で毎日向き合っているPCの中で生成されたりもしません。私の心は私の身体にあります。メディテーションを行う為には、まずこのことをしっかり理解する必要があります。

 また、メディテーションは心を観る作業である以上、心の動きの全体を捉える必要もあります。心の発生装置である身体の反応について捉えらなければ、心の生成過程がわからず心を動きの全体像を把握できません。身体の感覚を排除して、頭に浮かぶイメージや、感情や、思考などを観るのは、氷山の一角を観るようなものです。海面下に広がる巨大な氷があるように、心の動きにはそれぞれ背景があります。そうした水面下の背景もしっかり捉えるためには、身体的な感覚をしっかり捉えることが非常に重要になります。

 こうしたことから、メディテーションを行う際は身体の感覚を機能させておく必要があるのですが、これが意外と簡単なことではありません。実際にメディテーター(瞑想実践者)が身体的感覚を意識してメディテーションを始めても、多くの場合、実体的でリアルな身体ではなく、概念化された「イメージとしての身体」に意識を向けしまいます。この概念化された身体を「psychosomatic body」(サイコソマティック・ボディ)と呼びます。日本語に訳せば「心身症の身体」とも呼べます。

 例えば、 メディテーション中に、腰が痛いとか、足が痺れたとか感じることがありますが、これらの身体的な「感覚」は、多くの場合、リアルな身体感覚ではなく、ほとんどの場合この「心身症の体」のフェイクな感覚です。「ああ、長く座っていて足が痺れているなぁ」とか、「腰が痛いなぁ」とか「肩が凝ってるなぁ」といったものは、実際の体が受けた刺激(知覚)を発展させて自分自身でストーリーをつけて解釈して生み出した『思考』にすぎません。

 呼吸も同様に、五感を通して呼吸を「感じて」いるようで、実際は呼吸のイメージをしていたり、呼吸に解説やカウントをつけてしまっている場合もあります。これも呼吸をリアルに体感してるのではなく、呼吸という感覚的な刺激をさらに一歩進めて、呼吸を思考化・概念化したフェイクな感覚を感じているに過ぎません。こうした時、リアルな身体感覚は失われています。

 メディテーションなどの特定の自覚訓練を行わない場合、日常的に感じてる身体の感覚は、フェイクな感覚、すなわち心身症的な身体感覚がほとんどで、直接的でリアルな身体感覚を知覚するは容易ではありません。私たちは、実際リアルな身体なのか、概念化されたフェイクな身体なのかがわからなのです。

 マインドフルネスだけではなく、あらゆるメディテーションを行うにあたって、この直接的でリアルな身体感覚を使えるか否かで、 その効果、そしてその後の成長は全く異なったものになります。もし、自分の身体を感じているようで、実際は概念化された身体のイメージ、すなわち心身症の身体に向かって練習をしているとするならば、それは単なる『瞑想のふり』をしているにすぎません。

 残念がら、メディテーションを始めたばかりの場合、誰もがこの『瞑想のふり』から始まります。しかし『ふり』から始めて、徐々にリアルな身体感覚を得られるようにしていくことが瞑想実践の正しい進み方です。その為にメディテーションのテクニックを正しく学んで、インストラクションの通りに適正に練習を積み重ねていきます。そうすることでフェイクの割合を減らしていきます。

 

 しかし、この心身症的なフェイクな身体感覚と実際のリアルな身体感覚の違いを知らずに、盲目的に心身症の身体と瞑想のふりを続けると、効果が出ないだけならまだしも、心的な問題を起こしてしまいます。心身症の身体のような概念化されたものを追いかけすぎると、概念を作る力を強化することになります。そしてエゴ(自我)も概念の一つである以上、こうした瞑想のふりを続けると、どんどんエゴが強化されます。結果、エゴが強い人格形成が進み、独りよがりな人になってしまいます。egomania(エゴマニア)とかegohood(エゴの境地)とか言われたりする人格になってしまいます。

 こうした概念化作用の強い人格になると、自分の周りの世界とのコミュニケーションに全て歪みが生じます。例えば、人の話を聞く場合、「聞く」と言う直接的な身体的行為をしていながら、耳から入る音に自分の解釈・解説をつけて異なるイメージを作り上げてしまう為、相手の言葉が素直に入りません。人の言うことが正しく聞くことができなくなります。また、活字を読んでいても同様で、視覚を通して刺激された文字情報に自分の解釈を加えすぎで情報が歪み、素直に入りません。どんどん自分の過度な傾斜をかけた情報に切り替わります。結果的に全て歪んだ情報しか得ることができず、書類や本を読んでもその内容が正しく入りません。エゴの境地に達した人たちは、本来の純粋でダイレクトな世界とは隔絶された自分だけの解釈に基づいた隔絶世界の住人になってしまいます。

 だからこそ、メディテーションをする際には、リアルで直接的な身体感覚を使うことが大変重要なポイントになります。 メディテーション中にリアルな身体感覚を感じるには、まずは、自身の姿勢や呼吸に対して正確に精密に感じる必要があります。そしてしっかり身体感覚が効いているとき、自分がいる場所も把握できるようになります。そこがよくメディテーションで言われる『今・ここ』です。今にいる時、ダイレクトで純粋で、歪みのない世界が眼前に広がっていきます。ここで初めて自分の心と自分の世界に対して素直にオープンなコミュニケーションが始まります。「あるがまま」とよく言われるのはこの状態です。

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、メディテーションをManual Labor(肉体労働)と表現することがありました。身体はメディテーションの大切な一部なのです。

メディテーションを始める為にクッションに座ったら、まずいの一番に身体の感覚をチェックしてみください。そこがメディテーションで最も重要な場所であり、スタート地点なのです。

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