ベーシック・サニティ
May 18, 2025
もともと備わっている「目覚め」の感覚
私たちの心の奥深くには、生まれながらにして「目覚めた」感覚があると言われています。これは特別に努力をしなければ得られないものではなく、もともと備わっている性質です。仏教ではそれを「ブッダネーチャー」、あるいは「ボーディチッタ」と呼びますが、決して一部の限られた人だけのものではなく、誰しもの中にある本質的な穏やかさや明晰さを指すのです。
思考との関わり方
日々の生活の中で、私たちは何かと考え事をしてしまいがちです。「もっとこうしなくては」「ああすれば良かったかも」などと、意図的に感情をかき立てたり、逆に押し込めようとしたりします。しかし瞑想では、「思考をなんとかしよう」という野心を手放して、ただ自然に浮かんでは消えていくのを見届けることが大切です。その余裕を持つことで、本来私たちが持っている「正気さ」に触れることができます。この基本的な正気さを私たちの伝統ではベーシックサニティと呼び、瞑想実践の一つの方向性と考えます。
「本来の良い存在」という前提
「自分は本当はダメな存在ではないか」「まだまだ何かが足りないのでは」と考えるとき、心のどこかで「今のままでは十分ではない」と思っているのかもしれません。しかし、瞑想実践を通して、ただそこに座って、存在していることで、そもそも私たちはすでに十分に「良い存在」なのがわかるようになります。深く分析や研究をしなくても、日常でふと静かな時間や瞬間をもつと「本来の正気さ」を感じられるのです。
すでにここにある健全さとの出会い
穏やかで明晰な状態は、大げさに考えなくても大丈夫。じつは、背筋を伸ばしてただ座ってみるだけでも、その片鱗に気づくことができます。まるでブッダ像のように堂々と腰を下ろし、ほんの少しの間、何の作為もなく“ここ”にいることを感じてみるのです。すると、呼吸や思考の波があっても、静かなスペースが自分の中に広がっていることに気づくはずです。何もしないのに満たされているような感覚が訪れたとき、それは内面にある正気さに触れている証拠です。変に力んで「もっと集中しよう」「もっと何かを変えよう」と思うより、自然に起こることをただ感じ、受け取るだけで十分なのです。
ゴールを求めるより「そのまま」でいる
私たちはつい、何かはっきりとした結果やゴールを欲しがります。しかし、本来ある「覚醒」や「健全さ」を確かめるには、目標を定めるより「そのまま」いることが大切です。自然に起こる思考や呼吸を知り、ありのままを見守っていると、いつのまにか落ち着いた感覚が広がっていることに気づきます。姿勢が崩れたり意識が散っていることに気づいたら、ふたたびゆっくり背筋を整えればいいのです。
ブッダの心に触れる瞬間
一息ついて「今、ここ」に意識を向けたとき、自分がすでに十分に目覚めていることを感じられるかもしれません。見える景色や聴こえる音に対して、自分がどんな反応をしているのかをただ観察してみる。すると、本来の健全さややさしさに自然と触れられるようになります。何も足さず、何も引かず、気づけば私たちはいつでもそうした明るさの中にいます。
野心を手放して今起こることを見守る
シンプルな発見が積み重なると、「あ、これでいいんだ」と、ふっと安心できる瞬間があります。余分な野心を捨てて、今起こっていることを受け入れるからこそ、基本的な正気さは自然とあらわれるのかもしれません。もともと目覚めた存在だという確信を少しずつでも感じ取れるようになると、日々の生活もどこか軽やかになっていくはずです。何度意識が散っても、もう一度背筋を伸ばして座り直すたびに、私たちは自分の中のブッダの心を思い出せるのです。