リアル・アウェアネス
Sep 19, 2026
アウェアネス(気づき)は、瞑想の練習の中で、皆さんが一番培いたい、磨きたいと思っているポイントの一つだと思います。しかし、これほどつかみどころのないものもありません。どの辺りが正しいアウェアネスなのか、『気づき』と『自意識』の違いは、非常に曖昧です。瞑想実践においてここを間違って捉えてしまう場合が、実にとても多いのです。
チョギャム・トゥルンパ・リンポチェの『Ocean of Dharma』に、「アウェアネスの自然な状態(A Natural State of Awareness)」と題した短い一節があります。アウェアネスについて大切なことがすべて凝縮された、とてもいい文章ですが、その中でも肝になるのが、この一文です。
『実際、完全に気づいているためには、あなたはアウェアネスの体験を、自分のものではないと認めなければなりません。』 ― Chögyam Trungpa, Ocean of Dharma
自分のものではない、とはどういうことか。今回は、この一文を手がかりに、本当のアウェアネスとは何かを整理してみたいと思います。
探しているうちは、気づいていない
アウェアネスは、日本語にすれば「気づき」です。しかし、気づこうとして注意深く何かを探している状態は、アウェアネスではありません。危険がないか目を光らせている。何かが起こらないかとスタンバイしている。トゥルンパ・リンポチェも、この一節の冒頭で、そういう用心のことを言っているのではない、とはっきり断っています。
探しているのではなく、パッと触れる。そこに自然に生じたものにパッと触れて、すぐに離す。これがアウェアネスです。反対に、意識的に何かを探している。何かに気づこうとしている。何かをじっと見つめている。これは全部、ただの自意識です。ここが決定的な違いです。
瞑想を始めたばかりの頃は、特にこうなりがちです。「私、いまこんなことを考えているわ」「あんなことも考えているわ」「さて、これからどうしようかしら」。これはアウェアネスでも何でもなく、ただの自意識のおしゃべりにすぎないのです。
選んでいない
アウェアネスには、選ぶ対象がありません。そこで起こった出来事であれ、知覚として入ってきた情報であれ、思考や感情のように内側で生じたものであれ、生じたものにただ気づいている。自分が選んで、それを認識しているのとは違います。
トゥルンパ・リンポチェは、「パノラミック・アウェアネス」と表現しましたが、自分が真ん中に座っていて、まわりに空間がある。その領域で起こることには、何にでも気づいています。外でセミが鳴いているかもしれない。窓から入る風が、右側だけ少し冷たいかもしれない。身体のレベルでは、床に触れている感覚や、腰の張りがあるかもしれません。この日の私で言えば、寝違えた首の痛みもそうです。もっと内側では、パッと映像が浮かんだり、昨日の記憶が呼び覚まされたりします。これが意外とランダムで、まったく意図していないものが出てくるのです。
身体から遠いところ。身体のまわり。そして形のない内側。どのレベルであれ、そこに生じたものに触れている。トゥルンパ・リンポチェが「全般的な明晰さ」と呼ぶのは、こういうことです。
自分のものにしない
そこで、先ほどの一文です。
アウェアネスの体験は、自分のものではない。
私が何かに気づいている、のではありません。ただ気づいている。ただそこにあって、ただそれに気づいている。気づきを所有しないのです。「あ、これに気づいた」と思った瞬間、私たちはそれをつかんでいます。つかんだ途端に、それはアウェアネスではなく、自意識になります。
私たちの伝統では、これを「タッチ&ゴー」として練習します。触れたら、離す。つかまない。所有しない。自分の気づきを、自分のものにしない。つかまず、所有しないでいると、全般的な明晰さは自然に出てくるのです。
垣間見
ですから、ずっと気づき続けているのがアウェアネスなのではありません。トゥルンパ・リンポチェが使っているのは、「垣間見(glimpse)」という言葉です。どこかにたまたま裂け目ができて、パッと見えてしまう。セミの声かもしれないし、腰の痛みかもしれないし、なぜか急にカーネル・サンダースが浮かんでくるかもしれません。何でもいいのです。パッと気づく。それだけです。
クラスで、こんな質問がありました。座っていると、仕事のいいアイデアが、何の脈絡もなくパッと浮かぶことがある。これはアウェアネスなのか、それとも自意識の産物なのか、と。答えは、両方です。最初のひらめきを捉えた瞬間は、まさに垣間見の一種です。ただ、「あ、これはいいな」と思った瞬間から、それは自意識に変換されています。そのアイデアはもともと自分の中にあって、それがたまたま見えた、というだけの話なのです。
同じことは、思考にも言えます。厳密に言えば、手放せていない思考というものはありません。思考は一瞬で消えていて、続いてはいないからです。続いていると思っているだけで、実は次々と別のものを見ている。だから、また戻ればいいのです。
作り出せない、だから緩める
トゥルンパ・リンポチェは、「アウェアネスの自然な状態」とも表現しましたが、アウェアネスは、作り出せません。作り出そうとした途端に、それは自意識になるからです。では、どうすればいいのでしょうか?
自然な気づきが生じるためには、リラックスしていなければなりません。緊張していたり、意図的になっていたり、自意識が強く働いていたら、気づけないのです。ですから、やることはひとつ。強い自意識を、緩めることです。そのための手段が、私たちの伝統で「シャマタ」と呼ぶ、基本の瞑想です。吐く息に乗って、吐き切る。溶けて、ギャップ。そこで全部を諦めて、手放してしまう。その緩みの中で、生じてくるものに気づいていく。これが基本です。
フーッと吐く息に乗ると、頭の中のおしゃべりのレベルが、スッと下がります。すると、窓から入ってくる風の湿り気や冷たさに、ふっと気づいたりする。風はずっと吹いていたのです。気づかなかっただけです。身体はずっとそこにあって、ずっと何かに触れています。ただ、自分の心がどこかへ行ってしまっているから、わからないだけなのです。今の自分の存在に心が戻ってきたら、そういうものに触れていたことに気づく。なぜ気づくのか?気づけるところに心があるからです。それがアウェアネスなのです。
吐く息で身体と心がシンクロした瞬間、ピントが合って見える。ピントがずれれば、またぼやける。それを、吐く息という一つの規律を使って、何度も合わせる練習をする。これが、私たちの瞑想練習の一番根底にあるものです。そして、ここでのコツは、「ピントを合わせようとしないこと」です。合わせようとすると自意識が働くので、合いません。「吐いて、溶けて、ギャップ、いま私はこれに気づいた」とやっている間は、また自意識がおしゃべりしています。私はクラスでよく「まじめは病気」と言いますが、ちゃんとやろう、正しくやろうという真面目さも、ここではただの執着にすぎません。それもまた、一種の「作り出し」なのです。ただ吐く。それ以上でも、それ以外でもありません。気づいたら「思考」とラベルを貼ってただ戻る。吐く息の質も、思考の中身も関係ありません。これを愚直にできるかどうか、それだけなのです。
探さないと、出てくる
急いでいるときに限って、家の鍵が見つからない。仕事が立て込んでいるときに限って、大事な書類が一枚出てこない。探しているうちは、不思議とそれらが出てきません。諦めて「あーあ」となったときに、ひょっこり出てくる。誰にでも覚えがあるはずです。
アウェアネスは、これとまったく同じです。取っておきたい、何かに気づきたい、「あ、これはこうだ」とやっている限り、出てこない。探さない。探さないと、出てくる。これがアウェアネスのコツです。少し難しい言葉で言えば「放棄」、平たく言えば「手放し」です。何事においてもこれができれば、目の前にあるものが、そのまま出てきます。
ここで大切なのは、手放したら無になってしまう、という話ではないことです。手放すと、もっとカラフルになる。灰色になったり、真っ白になったりはしません。ピントが合うのです。カメラのピントがあったり、自分にぴったりのメガネを掛けた時のことを想像してみてください。そこには明るくて細かくて、そしてカラフルな世界が広がっています。それだけのことなのです。
所有しない。自分のものにしようとしない。これこそがアウェアネスのコツです。覚えておいてください。「あ、これに気づいた」と思っているとき、それはもう自意識です。しかし、そうではないところで、ちゃんとわかっている範囲が、皆さんの中にはすでにあります。自分を信頼してください。
探さなければ、もうそこにあるのです。