なぜ瞑想するのか?
Jul 18, 2026
瞑想には、たくさんの種類と実践のアプローチがあります。ヨガスタジオに通ってヨガの瞑想をする人。お寺で坐禅を組む人。ヴィパッサナーの合宿に行く人。マインドフルネスを医学的な臨床の中で実践する人。それぞれ、瞑想をする目的も、それによって現れる効果も異なります。
では、私の場合はどうか?私はなぜ瞑想をしているのでしょうか?
答えは、「平凡な日常を、好奇心と優しさを持って過ごすため」です。
別の言い方をすれば、いま目の前に起こっていることに向き合うため、とも言えるかもしれません。それだけなの?と拍子抜けする方も少なくないでしょう。残念ながら、突き詰めれば、私が瞑想している理由はこれだけです。しかし実は、これがとても難しいのです。
ルンタとの散歩
普段の私たちは、未来の心配と過去の後悔に囚われすぎて、いま、この瞬間に起こっていることに目を向ける機会がなかなかありません。 たとえば私は毎朝、愛犬のルンタと散歩をします。しかし、その散歩の行程の中で、朝の空気の新鮮さや、木々の緑の深さ、ルンタの表情を感じ取っているのは、ほんのわずかな時間です。気がつくと、その日の仕事の算段や、昨日の出来事の反省に囚われています。単に気が散っているだけではありません。不安にこわばったり、焦りで散歩の足取りが速くなったりしている。散歩の全行程に関わって散歩することは、容易なことではないのです。
瞑想のふり
そして、瞑想をしていても、私たちは瞑想していません。トゥルンパ・リンポチェはよく『瞑想のふり』という表現を使いましたが、瞑想中も、いま現在に存在しているというよりは、過去や未来の思いに連れていかれて、白昼夢を見ている時間のほうが圧倒的に長いのです。
私たちが触れているつもりで、ほとんど触れていないもの。それが「些細で平凡な日常」です。スター・ウォーズでヨーダが若きルーク・スカイウォーカーを——未来へばかり向いていて、地に足がついていない——と評しましたが、私たちの毎日も、それとよく似ています。いま自分がどこにいて、何をしているのかには、いっこうに心が向かないのです。
コインの裏表
過去や未来に思いを馳せていると、当然、目の前のことに興味は持てません。通りに咲いている花、小鳥のさえずり、コーヒーの香り、毎日の食事の色鮮やかさ、家族やペットの笑顔。すべてが目に入らない、ある意味で完全スルーです。そうしたものを無視して、私たちは、なりたい自分やダメな自分ばかりに目を向けるのに忙しく、目の前の世界の豊かさ、鮮やかさに触れるいとまがありません。
それだけではありません。過去の自分に囚われているときは、後悔と自己批判を繰り返しているときでもあります。未来の自分に囚われているときは、漠然とした不安と、何かが足りないという不足感からくる焦燥感がつきまといます。どちらにせよ、自分を引っ張ったり、責め立てたりと、攻撃的になっています。そこに穏やかさや優しさは、ほとんどありません。身体にも、強張りや緊張が走っています。コインの裏表のように、なりたい自分を夢見ているとき、その裏側には必ず、いまの自分への不足感と焦燥感があるのです。
フーッと、吐いてみる
しかし、いまこの瞬間、現在のリアルな状況と自分が関わっているとき、私たちは日常の鮮やかさや豊かさの細部に触れ、同時に、不安や恐怖、猜疑に囚われず、穏やかで優しくいられます。この瞬間に在る感覚こそが、私たちの基本状態です。誰もが、基本的にはこうなのです。
これを疑う人もいるでしょう。試しに、いま、フーッと大きく息を吐いてみてください。そこには緊張もなければ、不安もないはずです。体も心も、柔らかいはずです。これが、優しさと穏やかさの基本の感覚なのです。
日々の瞑想の訓練は、この自分の「柔らかさ」を再確認させてくれるものです。同時に、過去の思いにも未来の期待にも囚われず、いま目の前で起こっていることに目を向けさせてくれます。それによって日常の豊かさに触れ、自分には何かが不足しているという思い込みを解除してくれるのです。
私たちは充足して、余裕があり、穏やかで優しく、それを周囲の人と分かち合える基本的な存在なのです。それを思い出せば、日々の態度と立ち振る舞いは、自然に柔和で優しくなります。瞑想は、ただこれだけと言ってもいいのかもしれません。
どのステージでも、失われるもの
しかし実際に瞑想を始めてみると、ほぼ最初から最後まで、いまへの好奇心も、優しさも、穏やかさも、余裕もないことに気がつきます。
始めたての頃は、じっと座っているだけで苦痛です。イライラしながら、早く終わることだけに囚われ続けたり、思考に囚われたり、呼吸がうまくいかないことに焦りや不安を感じたりしがちです。そのイライラや不安に、興味関心を持って穏やかに目を向けることができません。
瞑想に慣れてくると、落ち着いて座ってはいるものの、ただボーッとしていたり、特定の考えごとに魅了されたまま時間を過ごしたりすることが多くなります。これはこれで、いま現在の新鮮さや豊かさに触れられず、体や心が鈍くなっていることが少なくありません。
瞑想が一人前になって、ポストメディテーション、すなわち日常の中で瞑想的な心を維持する訓練に入ると、自分の立ち振る舞いが気になりすぎて、目の前の状況へ興味を向けられないことが多くあることに気がつきます。さらには、スピーディーな社会のペースにハマって、余裕や穏やかさ、優しさがまったく発揮できなくなっていたりします。
さらに実践を続けて、サダナやチャンティング、ビジュアライゼーション(視覚化)などの高度なトレーニングに入っても、難しいテクニックや目新しさに魅了されて、いまの自分の感覚を置き忘れたり、実践の達成や完成に囚われて自分を厳しく追い詰め、その厳しさが周囲にも漏れ出したりします。自分の達成だけがプライオリティとなって、周囲の人々や出来事に興味を向けることができなくなります。同時に、柔らかさや余裕、優しさを失ってしまうことも起こります。
このように、瞑想のどのステージにあっても、いつも欠落する要素が、いまへの「好奇心」と「優しさ」なのです。瞑想を実践していても、すぐに失われてしまうものなのです。
マシュマロのように柔らかい人
私の周りには、瞑想を続けて半世紀以上になる先生方や実践者がたくさんいますが、その方々は皆、マシュマロのように柔らかい人です。そうした彼らの様子こそが、瞑想を続ける意味と効果を物語っているのではないかと思います。
瞑想を実践して、心や体が硬くなったり、疲れたり、鈍くなったり、焦ったり、不安で苦しくなったりするのであれば、それは練習の仕方を誤解しているから、つまり、瞑想の理論的な理解に誤解があるからです。ただただ一生懸命に勉強と実践をしているだけで、優しさや好奇心、新鮮さや楽しさがなければ、それはダークサイドへまっしぐらの瞑想です。 もし、自分の柔らかさと好奇心が失われていることに気づいたら、一度立ち止まって、眼前に広がる豊で柔和な世界に目を向け直すことをお勧めします。